平井城鳥瞰図の思い出       三好徹明

私が平井城鳥瞰図(鳥が空から見た風景図)を描くことになったルーツを思い出してみると二十五年前にさかのぼる。
藤岡青年会議所(JC)が市内の各中学校から選抜した一〇〇人程度の生徒を連れて自転車で市内の史跡を訪ね歩く事業に参加したのがきっかけであった。
北海道出身の私は藤岡にたくさん点在する古墳などに驚き、自分なりに資料を集めてにわか勉強して初めて平井城の存在と歴史を知ったのである。
西平井の矢島勇さんをはじめ関係者の永年の努力により、昭和六十三年保存会が結成され。私は鳥瞰図を書いてみようと思い立ち、平井城の資料を集め始めながら、城郭や城下町の配置など推測した。
現在の平井小学校の西に大工ヶ谷戸、東に鍛冶ヶケ谷戸などの地名が残っており、公図の地名地番から位置を割り出して下絵製作の平面図に記した。
城下町の規模やそこで暮らす人々の暮らしぶりに想像を膨らましていった。
また馬場(馬の戦闘訓練場)や鮎川の崖を三箇所の堰によって止め、城を防備する水をたたえた人口湖が形成されていたと記録されており、
それがどの程度の規模の湖だったかなど等高線などから水没の面積の大きさを想定した。また鳥瞰図の役に立てばと友人の一人が等高線に沿って忠実に再現した地形の模型をプレゼントしてくれた。
本丸の西南には平井城の詰め城である金山城があり、発掘調査の一般公開現場にも足を運び、山肌に無数にきざまれた縦に走る空堀の跡など当時の築城方法などを参考とした。
現在もそうであるが、昔から交通の要衝であった旧鎌倉街道は美九里東小校庭を横断し更申山をまたぎ平井小学校から真言宗大聖寺前から吉井、高崎に向かって延びていた。
街道を歩きながら当時人々暮らしぶりや賑わい、鎌倉府と上杉家の反目やその後の戦いの様子を想像したものであった。
当時鮎川を横断する上信自動車道は工事中であり、鮎川には橋脚だけがすでに完成していた。鳥に少しでも近づこうと無人の橋脚に登り、高い位置から平井城方面がどのように見えるか写真などを撮ったものである。
このような現地での調査。文献研究から約5ヶ月の時間をかけアクリル絵の具で描いたのが「平井城と城下町鳥瞰図」であった。
藤岡美術界の展覧会など数箇所で展示したり絵葉書にしたりして多くの人に見ていただいた。

 その後、鳥瞰図原画は1997年、永年平井城の調査研究と保存運動に半生をかけた矢島勇さんに寄贈した。