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丸山ワクチン単独投与による治療の症例 |
主成分 LPS,リポ多糖とは・・・ |
置き去り20世紀の奇談 (丸山ワクチン) |
私は「丸山ワクチン」求めて、日本医科大学付属病院ワクチン研究所に出かけた。 持ち帰ったたくさんの資料の中に、2001年1月、 週刊誌が取り上げた「丸山ワクチン」の特集記事を見つけた。 何回かに分けて信じられない事実を、ブログ「湯治庵の日々」に掲載する。 |
週刊新潮 2001年1月 「置き去り20世紀の奇談」より ・・・・一徹な職人気質の医学者によって生み出されたこの薬は、 患者を置き去りにした不可解な認可審議は、なぜ許されたのか。 気鋭のライター・祝康成氏が医学界最大の奇談を解き明かす・・・・ |
「間違いなく効くよね。 ただどうして効くのか。といわれても、 みんな生きている、ガンは残っているが元気だ、としかいえないんだ」 東大法学部名誉教授の篠原一が膀胱がんを宣告されたのは、昭和48年、48歳の時だった。切除手術を受け、放射線治療の苦しみとガン再発の恐怖の中ですがったのが「丸山ワクチン」である。 「ボクの先輩は10年前、打ち続けて、もう治ったろう、と止めた途端、再発して亡くなった。
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丸山ワクチンは、平成4年(1992年)90歳で亡くなった丸山千里・ たとえば、横浜在住の男性(70)の話はこんな具合。
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まず投与を希望する患者とその家族は担当主治医に「承諾書」を書いてもらったうえで日本医大を訪ね、レクチャーを受けてワクチンを購入(40日分9000円)、主治医のもとへ持ち帰り、ここでやっと注射してもらうことが可能になる。 それでもワラにもすがる思いの患者は、
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医学会のドンの反発 |
丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー⑤ 医学会のドンの反発 昭和51年、丸山が製造認可を申請する数カ月前のことだった。 「普通は医学部の教授と言ったら、一週間に一度、助教授とか引き連れて大名行列みたいに病院を回るでしょう。 この温厚で生真面目な丸山が、唯一、激情を発露させた時期がある。
(2008.5.8。実際に日本医科大学付属病院を訪れるために、グーグルで地図検索してみた。広大な東大本郷キャンバ敷地の一本道を隔てて、100分の1以下の敷地にポツンとあった。昔も今も視覚的にも最大の権威の脇でひっそり息づく「植民地」そのものであった・・・)
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丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー⑥ 一方、山村雄一は、丸山とは対極の人生を歩んだ。昭和16年に大阪大学医学部を卒業すると海軍の軍医となり、激戦地となったガダルカナルにまで赴いている。戦後、九州大学医学部教授を経て、母校大阪大学に戻るや、トントン拍子に出世し、昭和42年に医学部長、54年には大学総長の地位まで昇り詰めた。 この挫折知らずのエリート学者に唯一、屈辱を味わわせた人物が、 また、山村と親交のあった医学者はこう証言する。 |
丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか-⑦ 凄まじいアラ探し もっとも、大規模な臨床試験を行った学者はいた。 臨床実験のデータを無視された後藤が言う。 |
ここに医学界主流派の丸山ワクチンへの「本音」を物語る興味深い話がある。 昭和50年から51年にかけて、認可された2つの抗癌剤のケースを見ると、それがどんなにボロい商売かが分かる。 「抗癌剤は大別すると2種類あり、直接がん細胞を叩く、化学療法剤と、人間の体内にある免疫力を強化する免疫療法剤に分けられる。 ともかく、ピシバニールとクレスチンの売れ方や凄まじく、 しかも、トップの座を62年まで6年間も譲らず、 ところが、平成元年12月、厚生省はこの2つの抗癌剤について、「効能限定」の答申を出した。つまり、単独使用による効果が認められないので、化学療法剤との併用に限定するというもの、要するに「効果なし」というわけだ。 がんに効くと、もてはやしておきながら、一転、効果なし、では 1兆円もの医療費を、詐欺同然に巻き上げてしまった。 |
丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑨
「あれはたしか昭和47,48年頃のことでした。 「丸山先生は患者さんに、
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丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑩ 丸山潰し 「クレスチンとピシバニールが認可された後、薬事審は急遽、 従来の基準なら、丸山ワクチンは間違いなく認可されていたという。 「もともと、丸山ワクチンにいい感情を持っていない学者たちが、 当時の流れを時系列に検証していくと、なんとも不自然な認可の形態が浮かび上がってくる。 一方、丸山ワクチンは、51年の申請から53年にわたって計3回、厚生省薬務局から追加資料の提出を求められ、しかも資料提出の直後、今度は薬事審と厚生省に比較臨床試験までやらされている。 「この調査会の座長を務めた、桜井欽夫(よしお)・元癌研究会癌化学療法センター所長が疑惑の人物。 つまり桜井は、自分が開発したクレスチンを自分で認可したわけだ。同時に、もし認可されれば、クレスチンの手ごわい競合商品になったに違いない丸山ワクチンを門前払いした新基準も作成しているのだから、さすがに国会でも問題になった。 55年当時で予算が18億円。この分配を2人は取り仕切っていたのです」(医事評論家)
癌研究会癌化学療法センター所長桜井欽夫
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丸山ワクチンの不認可後、 「私は、丸山ワクチンとは何か、 薬事審のメンバーの1人もこう証言する。 さて、当の桜井欽夫は、今なお囁かれる数々の疑惑に対してどう答えるのか? 東京三鷹市の閑静な住宅街にある自宅で、88歳になる桜井は取材に応じた。 歯切れのいい口調で語る桜井は、 薬事審の新基準については 「あのとき、免疫の基準というものはこれでいいのか、という世論が起こってくる。 だが、自らが開発に関与したクレスチンの爆発的なヒットも大きく影響した、という。 「クレスチンが馬鹿売れするから、 早い話が、調査会は大蔵省と厚生省の意を汲んで、 しかし厚生省は平成元年、 |
「山村先生は結核の専門家だから、実験の根本を詳しく知っている。 「一人のお医者さんがいくら一生懸命研究してね、病理検査もしないで、癌に間違いないとか、それが治ったとかいうのをただ記載して出されても、ホントに信用していいのか分からないでしょう」 「当時、癌治療薬の市場は年間800~1000億円と言われていました。 だが、この弱小メーカーのトップには、 「うちの社長は丸山先生に似て職人気質のところがありました。 では、本物の接待とはいかなるものなのか? 「まずハイヤーで厚生省や病院まで迎えに行って、 そのほか、ここぞという時のスペシャルコースもある。 「クラブで飲んだ後、女性が5人くらいいるお店に行くわけです。
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ただし、大手の接待はこんなものではない、という。 「大手メーカーと昵懇になった先生が急にクルマを買い替えることはザラで、一戸建の大きな家や別荘を突然建てる人もゴマンといました」 圧巻はパーティである。 「大手がよく使う手は『新薬試験中間発表会』などと称して、帝国ホテルやニューオータニで200~300人を集めてパーティを行うのです。 高級官僚の天下りポストも、大手はしっかり用意していた。 と考えていたと言うが、そのうち、こんな噂が飛び交い始めた。 「山村先生が丸山ワクチンに対してあまりに酷いことを言うので、うちにも何か恨みでもあるのでは、とみんなで疑心暗鬼になっていったのです。 丸山ワクチンの不運があった。 加えて、丸山の周囲にも、“宝の山”の匂いを嗅ぎ付けて、 欲の皮の突っ張った人間たちがうごめくようになる。
東京・丸の内で丸山ワクチンのシンポジウムが開催されたのは平成11年12月のことだった。 「主催を承諾してくれた産経新聞社に、 丸山ワクチン迷走の終着点は、未だ見えていない。(了) ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------- |
「欲望という名の電車」の車内(医学界)という限定された空間で、権威を誇示し、パンを奪い合う獣となんら変わらない人々が何時の時代でも、どの分野でもいるのでしょう。
テリー様、 抗がん剤の副作用に24時間耐えるがん患者の立場から、 「自立と共生」http://www.tetsuaki.net/ |