丸山ワクチン
丸山ワクチン単独投与による治療の症例
主成分 LPS,リポ多糖とは・・・
置き去り20世紀の奇談 (丸山ワクチン)無料カウンター
私は「丸山ワクチン」求めて、日本医科大学付属病院ワクチン研究所に出かけた。
持ち帰ったたくさんの資料の中に、2001年1月、
週刊誌が取り上げた
「丸山ワクチン」の特集記事を見つけた。
何回かに分けて信じられない事実を、ブログ「湯治庵の日々」に掲載する。

刊新潮 2001年1月 「置き去り20世紀の奇談」より 

・・・・一徹な職人気質の医学者によって生み出されたこの薬は、
医学界の不条理な権威主義や官民の癒着の中で苦難の道を辿ることになる。

患者を置き去りにした不可解な認可審議は、なぜ許されたのか。

気鋭のライター・祝康成氏が医学界最大の奇談を解き明かす・・・・
丸山千里 日本医科大学名誉教授
故 丸山博士


丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか-①

「間違いなく効くよね。

ただどうして効くのか。といわれても、

みんな生きている、ガンは残っているが元気だ、としかいえないんだ」

東大法学部名誉教授の篠原一が膀胱がんを宣告されたのは、昭和48年、48歳の時だった。切除手術を受け、放射線治療の苦しみとガン再発の恐怖の中ですがったのが「丸山ワクチンである。
25年間、ワクチンを打ち続けており、再発がないまま今日に至っている。
篠原は、丸山ワクチン患者家族の会代表でもある

「ボクの先輩は10年前、打ち続けて、もう治ったろう、と止めた途端、再発して亡くなった。
主治医には内緒でワクチンを使っていて、解剖したその医者が不思議がっていた。
身体中、いたるところに
”古いガンがあり”どうしてこの人は10年も生きていられたのだろう”と首を捻っている。
ワクチンを止めてから、ガンがいっきに復活したんだな」



丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー②

丸山ワクチンは、平成4年(1992年)90歳で亡くなった丸山千里・
日本医科大学名誉教授が作り出したガン治療薬。

戦時中、皮膚結核の治療用ワクチンを開発した丸山が戦後、”結核患者にはガンが少ない”ことに気づき、丸山ワクチンの研究開発に乗り出したエピソードはあまりにも有名である。
昭和39年(1964年)に投与が始まって以来、これまで、丸山ワクチンを使用したガン患者は39万人弱にのぼり、現在も年6000人近い新規患者が、投与を始めている。
東京千駄木にある日本医科大学ワクチン療法研究施設を訪ねると、それこそ頬をつねりたくなる”奇蹟の体験談”がごろごろ転がっている。

たとえば、横浜在住の男性(70)の話はこんな具合。

「女房が使い始めて26年になります。末期の結腸ガンで、医者に余命3ヶ月と言われてね。腹がパンパンに膨らんで、手術で切り取った腸の内部は、がん細胞がビッシリ詰まって、針がやっと通るくらいの穴しか空いていなかった。
さすがに、これはダメだ、と覚悟しましたよ。
しかし、丸山ワクチンを打ち始めるたら、みるみる健康になって、いまじゃ風邪もひかない。丸山先生は命の恩人ですよ」

篠原はこんな話を披露する。
「最近、末期で丸山ワクチンだけで治療した有名人というと、平成10年に亡くなった
安東仁兵衛(戦後革新勢力の指導者・享年70)だね。最初は食堂ガンでね。
当初は完全にとったから大丈夫、ということだったけど、しばらくしたら肺に転移していることがわかった。
それで抗がん剤を打つとなったら、安東は”絶対にイヤだ、丸山ワクチン一本でいく”と。
すると医者は”まあ、この状態では来年の桜は見られませんな”と言ったらしい。安東は結局2回、桜を見ましたよ。”ざまあみろ、おれはサクラを見ているよ”と笑っていた」
最後まで痛みはなく、散歩に出かけたり、篠原とビールを飲んだりしていたという。

丸山ワクチン患者・家族の会代表 
東京大学名誉教授 篠原一



丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー③


 ところが周知の通り、この丸山ワクチンは、未だ厚生省の認可が折下りず、使用の際は煩雑な手続きを強いられる事になる。

まず投与を希望する患者とその家族担当主治医に「承諾書」を書いてもらったうえで日本医大を訪ね、レクチャーを受けてワクチンを購入(40日分9000円)、主治医のもとへ持ち帰り、ここでやっと注射してもらうことが可能になる。

昭和56年(1981年)12月より、2回目以降のワクチンの郵送が認められたが、それまではワクチン購入のつど、直接日本医大に出向いて長蛇の列に並ばねばならないという、不認可薬ゆえの苦労を強いられていた。

それでもワラにもすがる思いの患者は、
日本全国はもちろんのこと、海外からも日本医大へと集まった。


日本医科大学付属病院 正面
丸山ワクチン有償治験薬という摩訶不思議な名称のもと、
例外的に投与を認められた、世界でももっとも有名なガン治療薬なのである。
では、何故、認可されなかったのか?

その背景を探っていくと、医学会の想像を絶する権威主義と、

薬品メーカーを巻き込んだ利権争いの構図が見えてくる。



丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー

医学会のドンの反発

22年前、皮膚ガンを宣告され、自らも丸山ワクチンを投与し続けている医事評論家の生天目正一(なばため73歳)はこう語る。

「癌学会の主流は東大です。
その
東大の植民地でしかない私立の日本医大の、しかもマイナーな皮膚科の無名の医者丸山千里が、自分の名前を冠したワクチンなんてとんでもない、という意識でしかなかったんですね」

昭和51年(1976年)、丸山は製造認可を申請するが、56年、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会は「有効性を確認できない」不認可に。
ただし厚生省は「引き続き研究する必要がある」とし、治験薬として全額自己負担なら購入可とする、玉虫色の判断を下す。

ここから「丸山ワクチン」の先の見えない迷走が始まった。

「中央審議会なんて、年4回会合を開くだけだから、膨大な書類にハンコを押すだけの機関なんですよ。昭和36年(1961年)の薬事法施行により発足して以来、全ての申請に”可”のハンコを押してきた。実質上の認可は厚生省がやるるわけで、厚生省の窓口が受理した申請は全て承認されていたのです。
ところが中薬審は、わざわざ「丸山ワクチン」のために”否”のハンコを作ったといわれています」

この露骨な丸山ワクチン潰しの陰には、ある男の意向があった、と囁かれている。医学界のドンと呼ばれた山村雄一元大阪大学総長(平成2年没・享年71)である。


丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー

医学会のドンの反発 
この露骨な丸山ワクチン潰しの陰には、ある男の意向があった、と囁かれている。医学界のドンと呼ばれた山村雄一・元大阪大学総長(平成2年没、享年71)である。当時、取材にあたった新聞記者が明かす。


写真ー57年、NIH毒物学部長時代。2列目左から2人目が 山村雄一 元大阪大学学長。
癌で亡くなる数ヶ月月前ある会食の席で山村学長の言葉。
『人生で一番大切なことは「出会いを大事にする」ことです。よく、“出会いの大切さ”について語る人がいるが、出会えばいいというものではない。私の人生にとって、赤堀四郎先生との出会いは私の人生を決める出会いであった。しかし、当時、毎日大勢の人が赤堀四郎先生に会っているわけで、私だけが出会ったわけではない。いいかい、出会った時、その人との出会いがすばらしい出会いであると感じ、飛び込んだ私も偉かったのであって、これこそが、大事なことなんだ。いいか、肝に銘じてほしい。』  鹿児島大学医学部元教授談。

「山村先生は免疫学の第一人者で、牛型結核菌のワクチンでガン治療をやっていた。ところが、牛型結核菌というのは副作用を取り除く技術がなかなか確立できない。
それで丸山先生に、人型結核菌から副作用を取り除いた技術をどうやって開発したのか、教えろ、とかなり高圧的に迫った

 昭和51年、丸山が製造認可を申請する数カ月前のことだった。
当時の丸山の反応を長男の丸山茂雄(59、ソニーミュージックエンターテインメント副社長)はこう記憶している。
「親父は断ったんです。そのときは。そんなばかなことができるわけないじゃないか。というような反応でした。」

長野県生まれの丸山は、幼い頃から病弱で、とても30歳までは生きられない。と言われたほど。
 大正11年、のち日本医科大学となる日本医学専門学校の予科に入学し、卒業後は大学に残って研究ひとすじの生活で、権威とはまったく無縁の人生だったという。

「普通は医学部の教授と言ったら、一週間に一度、助教授とか引き連れて大名行列みたいに病院を回るでしょう。
ところが親父は患者さんの元へ毎日、一人でい行くわけですよ。
土曜日曜はもちろん、元旦まで行っていた。だから、患者さんは感激して退院後、自宅までお礼に来られる。親父は現金は絶対に受け取らないから、自分の家でとれた米とか野菜を持ってね。御中元とか御歳暮の時期は、生鮮食料品が山のようになっていました。」

 この温厚で生真面目な丸山が、唯一、激情を発露させた時期がある。
昭和25年、日本医大と早稲田大学の合併問題が持ち上がった時だ。
日頃は無口な丸山が、学生を前に、


「日本医大がこのまま医科大学であるなら、いつまでたっても東大の支配から抜けだせないだろう」と、演説までブッっている。

(2008.5.8。実際に日本医科大学付属病院を訪れるために、グーグルで地図検索してみた。広大な東大本郷キャンバ敷地の一本道を隔てて、100分の1以下の敷地にポツンとあった。昔も今も視覚的にも最大の権威の脇でひっそり息づく「植民地」そのものであった・・・)


周囲も驚いたこの変貌の裏には、妻の父親が早稲田に野球部を創設した安部で、岳父の影響を強く受けた丸山が強烈な早稲田ファン、という事情もあったらしい。

しかし、合併は敢え無くとん挫し、推進派の急先鋒だった丸山は当時の大学に睨まれ、以後、冷遇されることになる。給料もボーナスも大幅にカットされ、長女が通う都立大学の月謝も滞るという困窮生活も経験している。

丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか ー
丸山ワクチン潰し

 一方、山村雄一は、丸山とは対極の人生を歩んだ。昭和16年に大阪大学医学部を卒業すると海軍の軍医となり、激戦地となったガダルカナルにまで赴いている。戦後、九州大学医学部教授を経て、母校大阪大学に戻るや、トントン拍子に出世し、昭和42年に医学部長、54年には大学総長の地位まで昇り詰めた。

総長時代は、「アメリカのスタンフォード大学のように広大な医学部にせなあかん」と北千里に広大な土地を購入し、医学部、工学部などを一挙に移転させるというビッグプロジェクトを成し遂げている。
学外では、日本免疫学会会長、日本癌学会会長等を歴任し、昭和61年に学士院賞を受賞、63年には文化功労者にも選ばれ、まさに栄光と名声に彩られた学者人生だった。

 この挫折知らずのエリート学者に唯一、屈辱を味わわせた人物が
『東大の植民地』日本医大の無名の医者、丸山だったわけだ。

当時、取材に赴いたジャーナリストは、山村が、さも憎々しげに
「皮膚科出身の丸山が、人類を危機に陥れるガンという病気に果敢に挑まれているようだが、けしからん」
と言い放つのを耳にしている。

また、山村と親交のあった医学者はこう証言する。

「山村先生は尊大でしたね。威張っていた。山村先生は丸山ワクチンには反対でした。それは間違いない。実際にそういう内容の手紙をもらいましたよ。なぜ反対だったかは知りませんが、もし丸山先生に先を越されたことへの嫉妬だとしたら下らん奴ですね」


丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか-⑦

凄まじいアラ探し

もっとも、丸山ワクチンにも弱点はあった。科学的データの不足である。
当時の中央薬事審議会のメンバー、古江尚、帝京大学名誉教授(74)は、
丸山ワクチン反対派の頭と言われた人物だが、
「なにも闇雲に反対していたわけではない」と言う。

「わたしは悪者にされていましたけれど、
データ不足を解決できれば認可しよう、という立場でした。
薬事審議会でわたしが問題にしたのは、製剤以前の問題。
つまり、常に同じものが使われなければならないし、検証しなければならない。
その方法がまだ未解決であったこと」

そして、もうひとつが、丸山ワクチンの独特の投与の仕方、
濃いA液薄いB液を交互に打つ、という投与方法だった。

「A,B,A,Bという投与の仕方が全然検証を経ていないし、データも無い。
ただ単に丸山先生が経験上、これが一番良い、と言うだけだった。
なぜ、A,B,A,Bなのか、という科学的証拠がなかった」

もっとも、大規模な臨床試験を行った学者はいた。
後藤、東北大学名誉教授(75)である。
確実な効果が出ていたにも関わらず、審議会はことごとく無視したという。
後藤が、怒りもあらわにこう言う。

後藤 由夫 先生
現日本臨床内科医会会長(1999年-)

「初めから、これは潰そうという話しですからね。このデータは嘘ではないか。
とまで言っているんだな。先生が臨床したすい臓がんの患者は慢性すい炎の誤診でしょう、と。
こんなふざけた話はないから、調査会に異議申し入れ書を送りましたよ」

審議会内部の反応について、古江がこんなショッキングな証言をする。

「後藤先生のデータは立派なものでした。
わたしは、この審議会の委員の中でもこんないい臨床を出来る者はいないだろう。
この結果をもっと真剣に考えるべきだ。
本当に無効と言っていいのか、と迫ったんですが、無駄だった。

相手が無茶を言うんですよ。重箱の隅をつつくようなことをね。
たとえば動物実験で、マウスに関する実験はあるが、ウサギについてはない
とか。そんな身も蓋もないことを言うなよ、と嘆きたくなるくらい、醜いアラ探しだった
結局、事前に厚生省との間で拒否ということが決まっていたんですね
われわれ委員会は、いい面の皮ですよ。ああ、俺は飾りなんだな。
と痛感しました。だって、何を言っても通用しないんだから」


臨床実験のデータを無視された後藤が言う。
「なぜ、そこまでして丸山ワクチンを潰さなくてはならなかったか。
と言えば、がん学者はみんな他の製薬会社はそれぞれコネがあるんですよ。
やっぱり丸山先生はがん学者じゃないわけです。
学者というのは、専門以外の人間を認めたくないんだね


たかが皮膚科の医者が
というような偏見を持っていたんですよ。」



丸山ワクチンは何故「認可」されなかったのか-⑧

巧妙に仕組まれた罠

ここに医学界主流派の丸山ワクチンへの「本音」を物語る興味深い話がある。
匿名を条件に話してくれたのは、丸山と親しかった新聞記者だ。

「丸山ワクチンの患者の一覧表があるんです。
日本医大の名誉教授のロッカーにカギをかけてしまってあるんですが、分厚いやつでね。丸山先生は、自分が死んだら、その一覧表をぼくにくれる、と言っていたんだけど、まだ生きておられる時にちらっと見たことがある。
ずいぶん有名人もいたんですよ。
政治家とか芸能人とかね。その中で一番多いのは東大の医者たちですよ
猛反対していた学会主流派の東大です。
あれだけ反対していたのに、最後は丸山ワクチンに頼ったんですね。
丸山先生が東大でワクチンを開発してたら、間違いなく認可されていただろう。という話は何度も聞いたね。」

 もし、認可されていたら、製薬メーカーには莫大なカネが転がり込むことになる。
一般的に抗癌剤は
がんには効かないが、株には抜群に効く」と揶揄されるほどで、それが注目を集めている丸山ワクチンなら、歴史的なヒット商品となったのは間違いない。

 昭和50年から51年にかけて、認可された2つの抗癌剤のケースを見ると、それがどんなにボロい商売かが分かる。
「中外製薬」が開発販売した注射薬の「ピシバニール」と「呉羽化学工業」が開発し「三共」が販売した粉末薬の「クレスチン」である。

>参考資料< 2007年度
●中外製薬 売上高 3400億円
●呉羽化学工業・(クレハ) 売上高 1500億円  
●ゼリア新薬 売上高 約500億円
丸山ワクチンの売上高 約30億円・現在使用者数30、000人いづれも推定)

「抗癌剤は大別すると2種類あり、直接がん細胞を叩く、化学療法剤と、人間の体内にある免疫力を強化する免疫療法剤に分けられる。
この免疫療法剤の第1号が50年に認可されたピシバニールで、第2号が51年認可のクレスチン、そして、第3号になるはずだった免疫療法剤が丸山ワクチンです」
(医事評論家)

 ともかく、ピシバニールとクレスチンの売れ方や凄まじく、
発売10数年間で1兆円を上回る売り上げを記録、なかでもサルノコシカケの培養菌糸から抽出したクレスチンに至っては副作用が皆無で、しかも内服薬という利便性もあり、57年には年間売り上げが500億円と、全医薬品中の第1位に躍り出た。

しかも、トップの座を62年まで6年間も譲らず、
日本の医薬品史上、最大のヒット商品となっている。

ところが、平成元年12月、厚生省はこの2つの抗癌剤について、「効能限定」の答申を出した。つまり、単独使用による効果が認められないので、化学療法剤との併用に限定するというもの、要するに「効果なし」というわけだホント?

がんに効くと、もてはやしておきながら、一転、効果なし、では
ガン患者も家族も死んでも死にきれない。
患者の命を無視した国と製薬業界のあり方に、国公立、大手民間など約2330病院が加盟する最有力の病院団体「日本病院会」は激しく抗議。

「これまで両剤に投じられた1兆円にのぼる医療費は無駄使いだったことになり、死亡したガン患者や家族、さらに健康保険財政に大きな損害を与えた」

と厚生省と日本製薬団体連合会を非難している。

1兆円もの医療費を、詐欺同然に巻き上げてしまった。
その無茶苦茶なやり方には呆れるほかないが、一連の騒動を細かく検証してゆくと、丸山を嫌い、認可を阻止し続けた一派の動きがあぶり出されてくる。

ガン患者にとって常に誠実な医者であり続けた丸山千里は、巨大な利権が蠢く医薬品業界という伏魔殿の中では、あまりにも無力すぎた。
丸山は、実に巧妙に仕組まれた罠にはまり、犠牲となってゆくのである。

丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑨

「こんなことが許されていいのか

医学界で今もそんな声が渦巻くガン治療薬・丸山ワクチンの不認可問題。
一徹な職人気質の医学者によって生み出されたこの薬は、
医学界の不条理な権威主義や官民の癒着の中で苦難の道を辿ることになる。
患者を置き去りにした不可解な認可審議は、なぜ許されたのか。
気鋭のライター・祝康成氏が医学界最大の奇談を解き明かす(週刊新潮より)


長嶋茂雄と丸山千里の、こんなエピソードがある。
語ってくれたのは、生前の丸山と親交のあった研究者である。

「あれはたしか昭和47,48年頃のことでした。
丸山先生の机の上に、長嶋茂雄の直筆のサインボールがドンと2箱、
置いてあるんですよ。
なんでも、膠原病に悩んでいた亜希子夫人に丸山ワクチンを差し上げたら、
えらく喜ばれて、後日、サインボールを持ってきてくれた、というんですね」


(長嶋茂雄 巨人終身名誉監督の妻)心不全のため東京都内の病院で死去2007・9。(膠原病で入退院を繰り返していた
64歳。通夜、告別式は行わず、近親者のみの密葬。亜希子さんは1964年に米国の聖テレサ大卒業。
同年の東京五輪でコンパニオンを務めていた


つまり、丸山ワクチンは難病中の難病、膠原病にも効いた、
という話になるわけだが、その効能のほどはともかく、
サインボールの後日談が丸山の闊達とした人柄を物語る。

 「丸山先生は患者さんに、
”おたく、坊っちゃんいますか、
野球は好きですか、長嶋のサインボール、あるけどどうですか”と、
どんどん配っちゃうんですよ。
患者さんが “うちは子供、2人いるんですけど” と言うと“ああ、失礼しました。
もう1個、どうぞ”と、もう長嶋サインボールの大盤振る舞いでした」


だが、この無欲で誠実で、患者に愛され続けた丸山は、
丸山ワクチンという画期的なガン治療薬を生み出したがゆえに、
医学界から疎まれ、非運の人、となる運命にあった。



丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑩

丸山潰し

丸山ワクチンと同じ免疫療法剤でありながら、昭和50年に認可されたピシバニールと翌51年認可のクレスチンが医薬品史上、最大のヒット商品となったのは、前回述べた通り。
しかし昭和51年に認可申請が行われた丸山ワクチンは56年、厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会が不認可としている。

そしてこの裏には、医学界主流派の露骨な“丸山潰し”があった。
取材に当たった新聞記者が語る。

「クレスチンとピシバニールが認可された後、薬事審は急遽、
認可基準を上げて、丸山ワクチンを弾いたんですよ」

 従来の基準なら、丸山ワクチンは間違いなく認可されていたという。

「もともと、丸山ワクチンにいい感情を持っていない学者たちが、
この基準を盾に、不認可にしたのです」

 当時の流れを時系列に検証していくと、なんとも不自然な認可の形態が浮かび上がってくる。
例えばクレスチンは、申請から認可まで、わずか1年しかかからず、
しかも審議はたったの3回。
ピシバニールも認可まで2年である。
専門家に言わせれば「前例の無い異例のスピード」だという。

 一方、丸山ワクチンは、51年の申請から53年にわたって計3回、厚生省薬務局から追加資料の提出を求められ、しかも資料提出の直後、今度は薬事審と厚生省に比較臨床試験までやらされている。
その結果が56年の不認可とは、
どう考えても丸山ワクチンを狙い撃ちにした、“苛め”である。

厚生省は「新しい基準に沿ったまで」と涼しい顔だが、実はこの新基準には大きな疑惑が存在する。当時、新たに認可基準を設けたのは、中央薬事審議会の抗悪性腫瘍調査会だった。

「この調査会の座長を務めた、桜井欽夫(よしお)・元癌研究会癌化学療法センター所長が疑惑の人物。
桜井氏は、クレスチンの開発にも携わっており、審議会の委員として、認可に賛成している」(新聞記者)

 つまり桜井は、自分が開発したクレスチンを自分で認可したわけだ。同時に、もし認可されれば、クレスチンの手ごわい競合商品になったに違いない丸山ワクチンを門前払いした新基準も作成しているのだから、さすがに国会でも問題になった。
昭和56年7月30日の衆議院社会労働委員会で、

「薬審会の委員として自らが関与した薬剤を審査する立場はどのようなものか」と、薬品メーカーとの関係等を厳しく追及された桜井はこう答えている。
「そういうことは信用できぬ、ということであれば、私は不適任だと存じます」

疑惑はまだある。
丸山ワクチンを徹底して忌避したといわれる山村雄一元大阪大学総長との関係だ。
「当時、文部省の『科学研究費がん特別研究審査会』の主査が桜井さんで、副主査が山村さんだった。

55年当時で予算が18億円。この分配を2人は取り仕切っていたのです」(医事評論家)


第094回国会 社会労働委員会 第20号
 参考人出頭要求に関する件
 
厚生関係の基本施策に関する件丸山ワクチン
問題
    
山下委員長 これより会議を開きます。
 
厚生関係の基本施策に関する件、特に丸山ワクチンの有効性、安全性をめぐる諸問題について調査を行います。
 この際、お諮りいたします。本件について、本日、参考人として、

癌研究会癌化学療法センター所長桜井欽夫
国立熱海病院第一外科医長梅原誠一
国立療養所東京病院名誉院長砂原茂一君及び佐々木研究所病理部長佐藤博君、以上四名の先生方から意見を聴取することといたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

癌研究会癌化学療法センター所長桜井欽夫
一言所感を述べさせていただきますと、臨床試験といいますものは、制がん剤の開発では最も大事なところでございます。ことに免疫治療剤につきましては、現有のところ、少なくとも詳細な理論的展開は過去四年か五年ぐらいからの歴史しかないわけでございます。したがって、基礎実験のデータからこれは人間に効くであろうという予言をいたしますことは、一般の制がん剤の研究に比べてさらにはるかに困難でございますので、効果の判定は臨床領域、臨床の先生方の御判定に待つことがきわめて大きいということでございます。
 この臨床の成績の中で最も慎重に行われました東北大学を中心とするものと、愛知がんセンターを中心といたします二つの比較臨床試験のデータをよく検討いたしました。これは臨床の先生が非常に詳しく検討をされたのであります炉、たとえば愛知がんセンターの研究の例を見ますと、後層別をいたしまして、不完全な手術を行われた胃がんの手術の中で腹膜に転移のある者を分けて層別をいたむますと、非常に有意な丸山ワクチンの効果が出ている例がございます。ただし、先ほど申し上げました薬の規格の安定性というものをしっかりしてからやっていただきませんとまた問題が起こるのではないかということを痛感いたしております。

国立熱海病院第一外科医長梅原誠一
私は当初マスコミに発表された、昭和四十一、二年のころでございましたが、発表された当時を除いて、患者家族にSSM使用を希望されたことはほとんどありませんし、また可能と考えてお勧めする手術を拒否された経験もありません。私自身が治療方針を立て、SSM併用の許可を得て治療に当たり、トラブルもありません。手術不能例にはもちろん使用しておりますが、患者さんの苦痛をやわらげることに役立っているからこそ、それが実績となって、次の症例の家族がまた治験を承諾してくれるものと考えております。日本医大の研究施設に集まる症例もまた同様であろうと思われます。昭和五十一年に丸山先生が出された御本、単行本ですね、あれには私自身が強い困惑を感じました。あれを読んだ結果と思われますが、手術をきらって不幸な運命をたどった症例を私自身も二、三例は知っております。しかし過去十六年にわたって日本医大に集まる患者さんたちが、すべて無知なるがゆえに列をなすものとは考えられません。やはり実績によりその数を増すものと思われます。このことは過去に話題になってやがて消え去った公認、非公認を問わない多くの薬剤のことを考えれば、明らかなことであります。効いているからこそあそこに集まるんだと思います。
 私は一刻も早くこのSSM(丸山ワクチン)がごく自然に臨床医の手に入るようになり、その上で各臨床医が自分の治療手段に組み込むか否かを自由に選択できる状態が実現することを強く希望いたします。そうした段階になってこそ、さらにより正しいSSMの評価がなし得るものと信じております。



丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑪
噴出する疑惑

丸山ワクチンの不認可後、
基礎研究に従事した野本亀久雄(64)
(がん集学的治療研究財団副理事長) 
もこう語る。

私は、丸山ワクチンとは何か、
癌にどのような影響を及ぼすものかを2年間、
徹底的に研究した。
山村が一番潰したがっていたのは私ですよ。
私が丸山ワクチンは効かない、と言わないから。
どんな妨害があったかは言いたくもない。
医学界のトラブルというのは生易しいものじゃないんだから。

文部省の補助金分配にしても、いまやっていたら逮捕だろうね。
文部省のパイの山分けをやっていれば、それは強いよ。
ただ、私はそんなもの、一銭も貰っていなかったから関係なかったけどね。
それまで山村に恩恵をこうむっていた人が、
山村が“ただの水”と言ったらそれになびくのは当然なんだ」

 丸山ワクチンを擁護するデータを出した研究者が、補助金をばっさり切られた、などという話もあるが、ともかく丸山が、山村、桜井という医学界の大物2人と対立する立場にあったのは間違いない。

薬事審のメンバーの1人もこう証言する。
「桜井と山村は非常に親しかったですね。
彼らにとって、我々はチンピラみたいなものです。
桜井は、初めから丸山ワクチンを不認可に持っていく姿勢だった。
あれでは裏に何かある、と勘ぐられても仕方ありません」

さて、当の桜井欽夫は、今なお囁かれる数々の疑惑に対してどう答えるのか? 

東京三鷹市の閑静な住宅街にある自宅で、88歳になる桜井は取材に応じた。

「女房が死んで1人暮らしだから、この広さでも十分」

と語る自宅は木造平屋建ての、こぢんまりとした古い家である。
「みんな大豪邸でも構えていると思うらしいんだよね。
もう建ててから50年近くになるよ。
敗戦記念建築って呼んでいるんだ。
三鷹にも、さすがにこんな家はないからね」

歯切れのいい口調で語る桜井は、
疑惑のクレスチンにまつわる、こんな話を披露する。
 「右翼が騒ぎ出したことがあってね、
クレスチンで儲けてけしからん、ということらしい。
“街宣車で行くぞ”という電話があって、
警察にも相談したけど、結局来なかった。
この家を見て呆れたらしいね」

薬事審の新基準については
「あれは丸山ワクチンが出てきたから作ったもの」
と認めつつ、こう語る。

「あのとき、免疫の基準というものはこれでいいのか、という世論が起こってくる。
それでインターナショナルな情報を集めて作ったんです。
厚生省に、丸山ワクチンを認めない基準を作れ、と言われたわけじゃない」

 だが、自らが開発に関与したクレスチンの爆発的なヒットも大きく影響した、という。

「クレスチンが馬鹿売れするから、
大蔵省“こんなに税金はつぎ込めない"
と悲鳴をあげ、厚生省を攻撃したんだ。
困った厚生省は調査会に任せちゃったわけだな」

早い話が、調査会は大蔵省厚生省の意を汲んで、
丸山ワクチンを不認可にする新基準を設けた、というわけだ。

しかし厚生省は平成元年、
クレスチンとピシバニールについて
「効果なし」の答申を出し, 結果的に1兆円もの医療費が、
医者と医薬品メーカーの懐に消えている。

丸山ワクチンは、まったく効果のない、
この小麦粉同然の抗ガン剤のために認可を阻まれた、
といっても過言ではない。


丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑫

猛烈な官民癒着

 桜井は山村との関係は「親しくしていた」と認め、こう語る。
 「学問のレベルで言えば、山村先生は丸山先生なんて問題にしていなかったと思う。
山村先生は結核菌の第一人者で、結核をやりたい人間はみんな先生のところへ行ったんだから。
大きなグループがあって、研究費も方々から入って、私立大学の一研究者とは違うよ」

 丸山を歯牙にもかけなかったはずの山村が、こと丸山ワクチンの認可に限っては、大いに注目し一貫して反対の立場をとっていた。

 「山村先生は結核の専門家だから、実験の根本を詳しく知っている。
スタッフも優秀だし多くの論文も書かれていたし玄人なんですよ。
対して、丸山先生の論文は素人みたいなものだったからね」

 「一人のお医者さんがいくら一生懸命研究してね、病理検査もしないで、癌に間違いないとか、それが治ったとかいうのをただ記載して出されても、ホントに信用していいのか分からないでしょう」

 医学界の大御所から見れば“一人のお医者さん”に過ぎなかった丸山には、ワクチンの製造元が弱小メーカーの「ゼリア新薬」という、致命的なハンディもあった。ゼリア新薬の元幹部が証言する。

 「当時、癌治療薬の市場は年間800~1000億円と言われていました。
うち、クレスチンが市場の半分に当たる500億円を売り上げています。
うちは、丸山ワクチンがクレスチンの3分の1から4分の1でも売れてくれれば、と考えていました。
そうなれば年間200~300億円の売上げになる。
これは裏を返せば、年間べースで1億円の経費を使っても元がとれる、ということです。
製薬メーカーは、ひとつの商品がヒットすればビルが建ったり、株価が2桁上昇することさえあります。
ですから新薬を認可してもらうためなら、
カネに糸目を付けず、人海戦術で接待します」

だが、この弱小メーカーのトップには、
経費をばら蒔いて実を獲るだけのしたたかさが無かった。

「うちの社長は丸山先生に似て職人気質のところがありました。
丸山ワクチンの申請にしても、我々が
“厚生省の官僚や審議会の先生方に根回しをする必要があります”と、接待の必要性を意見したのですが、社長は
“良いものは必ず認められる。そんなカネは必要ない”と。
おかげで、経費を捻出するために領収書を誤魔化したりして、たいぶ苦労しました。うちは経費が使えなかった分、他社に比べると厚生官僚や薬事審の委員へのパイプが細い。
つまり、ゼリアは他社に比べると、政治力は格段に落ちるのです

では、本物の接待とはいかなるものなのか? 
ある中堅メーカーの幹部が、
医薬品業界の想像を絶する内幕について、重い口を開いた。

「まずハイヤーで厚生省や病院まで迎えに行って、

赤坂の料亭で食事をする。
その後は銀座のクラブを2~3軒ハシゴしてハイヤーで帰すのです。
無論、ただで帰すのではなく
“今日は大変勉強になりました。
これは奥様へのお土産でございます。
それとお車代を”
と言って、三越や高島屋で適当に買ってきた甘味類と、その下に現金を忍ばせる。
少ないときで5~10万円、多いときは50万円でした。
しかし大手は常に50~100万円渡していた」

そのほか、ここぞという時のスペシャルコースもある。

「クラブで飲んだ後、女性が5人くらいいるお店に行くわけです。
そこで官僚や医者に“どのコにしますか”と囁くと、
相手もニヤけながら“あのコがいいな”と指さすのですよ。
まあ、売春クラブですね。当時で10万円でした。
無論、ホテル代もかかりますから20万円。
その前のクラブとかひっくるめると50~100万円ですね



丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか-⑬

今も続く迷走
 

ただし、大手の接待はこんなものではない、という。

 「大手メーカーと昵懇になった先生が急にクルマを買い替えることはザラで、一戸建の大きな家や別荘を突然建てる人もゴマンといました」

 圧巻はパーティである。

「大手がよく使う手は『新薬試験中間発表会』などと称して、帝国ホテルやニューオータニで200~300人を集めてパーティを行うのです。
しかし研究発表も立食パーティも形式だけ。

肝心なのはその後。
全員に帰りハイヤーを用意しますが、その際に車代を渡します。
金額は少ないひとで10万円、多いひとだと数百万円は渡していましたね。
うちも同じようなパーティを開催したことはありますが、
ある先生から“やはり大手とは違うな”と厭味を言われたことがありました」

高級官僚の天下りポストも、大手はしっかり用意していた。 

「ピシバニールを製造・販売していた中外製薬は昭和54年、
厚生省の坂元貞一郎事務次官(グリーンピア構想を具体化したのは1972年8月当時の旧厚生省 坂元貞一郎事務次官)を副社長に迎えています。
坂元副社長は、薬事審の委員の前で

“おれの目の黒いうちは絶対に丸山ワクチンは認可させない”と言っていました」

一方、ゼリアの社内は、丸山ワクチンがなかなか認可されない現状を
「山村先生と丸山先生は同じ研究をしているので、ライバル関係だから仕方がない」

と考えていたと言うが、そのうち、こんな噂が飛び交い始めた。
先の元幹部が明かす。

山村先生が丸山ワクチンに対してあまりに酷いことを言うので、うちにも何か恨みでもあるのでは、とみんなで疑心暗鬼になっていったのです。
当時、社内では“ある社員が山村先生の娘さんと婚約している”という噂がまことしやかに流れました。
そんなコネがあるのなら何とかしよう、とみんなで該当者を探したが見つからない。そうこうしていると、今度は“その婚約は破談になったので、山村は丸山ワクチンばかりかゼリアも憎いのだ”と話が変わってきたのです。そこまでくると、我々もバカらしくなって、何もしませんでしたが」

他メーカーの、なりふりかまわぬ実弾攻撃に比べれば、なんとも呑気な話ではある。

生真面目で誠実な医師丸山と、融通の利かない弱小メーカーが組んだところに、

丸山ワクチンの不運があった。

加えて、丸山の周囲にも“宝の山”の匂いを嗅ぎ付けて、

欲の皮の突っ張った人間たちがうごめくようになる
丸山と付き合いのあった大学教授が、こんな話を披露する。

「丸山ワクチンの製造は、丸山先生の取り巻きの人間たちによって、実に多くの製薬会社に持ち込まれているんです。
第一製薬とか協和発酵、大鵬薬品にも行っている。
大鵬薬品は乗り気になって“共同開発にするから、データを出してください”と伝えたら“1億円出せ”と言われたそうです。
もちろん、丸山先生はお金のことなんか頭にない人でしたから、ご存じないですよ」


ひたすら、ガン患者のために、と孤軍奮闘した丸山は

認可を見るまでは死ぬわけにはいかない」
と執念を燃やし続けたが、平成4年3月、90歳で亡くなった。

その9ヵ月前の平成3年6月、丸山ワクチンを濃縮した『アンサー20』が認可されている。
しかし抗ガン剤ではなく、放射線治療の白血球減少抑制剤としての認可だった。

「親父はもう寝たきりだったけど、“うーん……”と言ったきりで、うれしそうじゃなかったな。あくまでも抗ガン剤としての認可を待ち望んでいただけに、不本意だったのでしょう」  (長男の丸山茂雄)

現在の丸山茂雄氏

アンサー20の認可で医学界の偏見はかなり軽減したとも言われるが、
主流派による妨害は相変わらず続いている。

東京・丸の内で丸山ワクチンのシンポジウムが開催されたのは平成11年12月のことだった。
患者家族の会の事務局長、南木雅子は準備段階でこんな体験をしている。

「主催を承諾してくれた産経新聞社に、
癌研究会の理事が直接乗り込んで

“丸山に関わるシンポジウムを主催するなら、
今後、癌に関する取材協力は一切しない”

と言ってきたのです。
産経新聞は、広告やチケットを刷り終えていたにもかかわらず、慌てて主催を降りてしまいました」

 丸山ワクチン迷走の終着点は、未だ見えていない。(了) 

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2001年1月18日 週刊新潮  
祝 康成 (丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか・・・より


20世紀の奇談「丸山ワクチン」の連載終わりました。

ライター祝氏の取材記事を引用させてもらいながら、かなりの時間を費やし関連の記事や文献をネットで探しました。
探すほど不可解なことばかりでした。奇談「丸山ワクチンは何故認可されなかたか」は日本の医療実態の裏側をあぶりだした貴重な記録だと思います。

「欲望という名の電車の車内(医学界)という限定された空間で、権威を誇示し、パンを奪い合う獣となんら変わらない人々が何時の時代でも、どの分野でもいるのでしょう。


阪大の山村総長(故人)は政治家としては1流でしたが、研究者、人間としては3流でした。
彼個人にもともと備わっていなかった”研究者として1流”の冠まで欲しがった。

個人の名声や肥大した欲望の結果「丸山ワクチン」は客観的に検証される機会も与えられず、がん治療に生かされませんでした。
そして、30年後のいま、国民病になった癌患者の選択権さえも封印されていると言わざるをえません。

これからも、累々とした無念者の墓標が風にさらされ、
その向こうの千里の丘には、
山村の権威の象徴白亜の阪大医学部が聳え立っていくことでしょう・・・

「丸山ワクチン」は現在まで30年間で累積39万人に及ぶ使用者。
不認可薬として現在も厳しい制約や条件の中で3万人が投与しています。

もし「丸山ワクチン」が認可されていれば、末期癌の人だけでも推計で2000万人の癌末期患者が利用できたでしょう。
臨床現場での検証の道まで閉ざした厚生省の不認可は、それに絡んだ欲深い共犯者達とともに、末期がん患者から最後の希望まで吹き消した大犯罪者といわなければなリません

テリー様、
私はすい臓原発癌から肝臓、リンパと転移を続け、

抗がん剤の副作用に24時間耐えるがん患者の立場から、

丸山医師が言い放った

「副作用の無いワクチンが 何故認可されないのか・・・

と唇をかんだ言葉に、日本の医療の病巣すべてが集約されていると思いました。

次回からは
「丸山ワクチンの臨床経験より」 日本赤十字看護大学客員教授
NPO法人ジャパン・ウェルネス 理事長:竹中 文良 を連載します。

「自立と共生」http://www.tetsuaki.net/