私の見たネパールのバジ


山岸正雄さん


2004/04/15
   山岸正雄


まるでテレビの紀行番組の中にいるような心の慌ただしさを感ぜずにはいられなかった。我先に走る車、それをすり抜けるバイク、クラクションの音色などをものともしない牛、まるで崩壊したような赤いレンガの建物の連続、小さな店先にたむろする男達、トラクターや耕運機の脇や後ろに乗って移動するのは農民か、

カトマンズ空港から専用バスで市街に出るとそれは暫く続いた。広い道幅の車両通行部だけがアスファルトで盛られ、余地は人々が横並びに語りながら歩いている。

その人たちは一様に物を携えていない。私の固定観念が災いしてバスの車窓から見る風景は私の脳裏に異様に写っていた。ネパールでの第一泊目、垣見さんゆかりのバンブーグローブへ向かう道は一気に田園風景に変わり、赤土の素肌で固まった路面に小さなバスは軋んだ。

その私たちのバスを覗き込むように見上げる沿道の人々、たぶん家の中の仕事がなければ外にいるので私たちの乗るバスも興味の対象に見えているようだ。私は最大限の笑顔で手を振ってみた。そして視線が合えば必ず白い歯をみせ微笑が帰ってきた。

10年前に垣見一雅さんがネパール・ドリマラ村に住み、そこの子供たちのために働いて見たいとの話を聞いた時、私はそれまで続けていた大きな組織への支援を垣見さんに代え託した。垣見さんの思いは熱く私に伝わり私に出来ない事をこの人がやってくれると希望が生まれた。

私の希望は弱い人を救いたい特に子供から救いたいと思った。垣見さんの夢と合致した。「垣見一雅を支援する会」がスタートした。

ネパールに渡った垣見さんから程なく手紙や写真が送られてきて、また帰国の折に現状の話を興味深く聞き、
4年後には10名の会員が垣見さんの活動拠点ドリマラを訪れた。しかし私はもともとそこへ行く気はしなかった。

私は臭い、汚いなどに嫌悪感が出てしまうような不安があり、いつも人前で言う事からすれば偽善者なのだ。ネパールの垢だらけな手の子から握手を求められたら応えられるだろうか、垣見さんの写真にあるように親を失い、汚れたボロまとい洟をたらした子供を抱きしめる事が出来るだろうか、私の内心は
NOだった。そんな者がそこへ行ってはいけない、行くべきではないと私の弱い心根を回避していた。

現地ネパールでは2004年3月、OKバジ10周年記念がネパール人の主催のもと開かれる事が昨年春に伝えられて来た。OKSSとしても参加者を募り式典を見に行くことになった。私もムリして参加に挙手したが、やや重いものを感じていた。

4の孫が飛行機に乗ってみたいと云うので「一緒に行くか?」と言うと海外旅行未経験の孫は二つ返事で行くと答えた。私は決心した。

反政府ゲリラ(マオイスト)の出没などの不安材料があり当初の予定がややずれ、孫の春休みには都合が良かった。10日間の旅程が組まれタイ、バンコック経由で行くことになった。

私にすればこれも良かった。日本とは違う露天飲食店の生活や場末の環境に慣れる事ができ
2日滞在したバンコックからネパールカトマンズに着いた時すでに私は変身していた。

耳目に入るものに違和感を感じるものの懐かしさに溶け込みたいとも思い、匂いは全てのものに染みていたが私の許容応力で薄らいでしまったようだ。

むしろ、ドリマラ村へ入る前にネパールの芸術的な古都バクタブールを見学した時も今もそこに住める人たちを羨むばかりだった。ドリマラへ向かう為の第2泊地タンセンへはアクシデントがあり、その日に行けなかった時も案内役のゴパール、ロス両氏は苦心しながらのバハイラーワの田舎を人力車に乗せて見せてくれた。これはプログラムに無いことで更にゆったりと時間の流れる村を歩いてみた。

良く働く女性は牛の糞を練り大きな木の幹に貼り付けた。乾燥をさせ燃料にする小学生の時の社会科に出てきた光景がそのまま広がった。どこの町でも村でも男より女のほうがよく働く姿が見えた。言い換えれば男は数人が家や店先でたむろしているといった光景で、のんびりなのか仕事がないのか、怠け者なのか聞いてみたかった。

アルバンシャンという小さな町でバスからジープ型4輪駆動車に分乗し黄色いネパールパウダーを浴びながら悪路走行試験をするようにドリマラ村へ向かった。明らかに人が住むのには不利としか云い様のない山間地がいくつも同じような村の風景を作っている。時計の長い針が一回りする前にドリマラ村の入り口に着いた。

垣見さんの当日の計画では周辺の子供たち400人ほどが歓迎で集まる予定だったが先のマオイストの活動が活発と言うニュースが行き渡り、たった今は安定しても連絡の手段が「足」であるため私たちを迎える今日の大歓迎会にはならなかった。こんな事の責任は誰にもないし私たち一行もまったく意に介さなかった。すでに心までネパリズムになっている様だった。

この日、ここに来るまでに予想以上の時間がかかり一行はドリマラ村での滞在は2時間足らずとなってしまった。今回の旅は当初からの計画で垣見さんの活動拠点ドリマラ村へは泊まらずタンセンに戻るわけだが私は垣見さんから安全を確認した上で一泊の滞在を決意し、会長に懇願した。

翌日タンセンで合流出来るとはいえ孫まで連れてきた私だけがドリマラへ留まるのは非常識であった。それでも私の我がままと心情を理解してくれた会長、そして孫まで預かってくれ賛同してくれた9人の仲間に嬉しくて涙がにじんだ。

400人は集まらないが大人たちを含め100人くらいは居ただろうか私たちは10周年特別カンパの他、参加会員がトランクなどに携えてきたさまざまなお土産を広げ富沢会長が「現地のバジ」に渡した。そして私たちは準備してきた替え歌を北爪氏の尺八で合唱披露し、ドリマラの皆さんからは可愛い4人の女の子が出てきて歓迎ダンスで交流式典となった。短い時間ではあったが名残惜しそうに9人のお仲間と孫の孝行はタンセンへ戻っていった。

参加者の中で私一人ドリマラ村へ一泊だけバジと残った。ロスさんとバジに案内されて夕方の村内を散歩した。言葉使いも眼差しも普段、私たちに接する時の飾らないバジそのまま、マザーテレサや晩年のヘップバーンがいつも現場に立っていたその姿を想像し今、私はたいへんな人といると思った。

そして、バジが日本人である事に誇りを感じた。その夜は東京都立高校から女子学生数名が先生に引率のもと来ていた。昼に式典をした校舎の脇で村の大人、子供たちが歓迎の歌やダンスを披露し高校生たちもそれに応えた。

私と夕食を共にし家の中で遊んだドリマラの子供は私の手を握って見ていた。もう一人は私の膝に座り降りようとはしなかった。どの子も、どの子もみんなみんな私たちの子だ。

富沢会長、島田副会長、北爪先生、大澤さんご夫妻、三好さん、小林さん、喜知子さん、節ちゃん本当に楽しい良いお仲間です。ありがとう。

タイやネパールの皆さんありがとう。大切な時間を割いてくれたバジ、ゴパール、ロスさんありがとう。生まれて初めて
10日の旅に送り出してくれた家族のみんな、ありがとう。価値ある旅でした。      END



来たぞ、ドリマラ村
   2004/04/020  
         
相生小学校5年
  山岸孝行

ぼくのおじいちゃん(マスター)からいつもOKバジの話は聞いていました。その垣見さんの活動しているドリマラ村へ大人10人と子供のぼくで10間の旅行をしました。

ドリマラ村への道はけわしい山道をジープで40分以上かかり、ドリマラ村へつくと、とつぜん子供たちがわーっと集まり、車から荷物をおろすと運んでくれた。長い石だんをのぼり、荷物をおいて来てはまた、おりてくる。ぼくも負けずとバッグをもち、石だんを上がった。でも一度あがっただけでへとへとになった。

なんでネパールの子はそんなにがんばれるのだろう。と思いながらぼくはひかげで休んでいた。そして、しばらくしてお昼をごちそうになる家へ行った。そこのお母さんが出てきて中へ案内してくれた。どまに、ござをひいて座ると垣見さんが「お酒がありますよ、飲みますか」と聞いてきたのでその場にいた三好さんと大澤さんは飲みますと言った。するとお母さんがロキシーと言うお酒を出してくれた。

「ロキシーどうぞ」と日本語で言った。どこで日本語を覚えたんだろうと思って垣見さんに聞いてみた。すると「ぼくが話したのを覚えたんだよ」と言った。でもよく考えると、ここで日本語が出来るのは垣見さんだけなんだと思った。

お昼はほそ長い米と野菜のターメリックいためを指先でまぜ、固めて口に運んだ、シンプルだけどおいしかった。最初はネパールの食べ物が食べられるかなと言う心配をしたが問題なかった。

そして、食事が終わり広場に行くと、ぞうてい式の準備が進められていた。そして、この旅行のメインイベントのスタート。ぞうてい式では約20万円がおくられた。そして北ずめ先生のしゃくはちのばんそうで草津節の替え歌と、ぼくのリコーダのばんそうでドレミの歌も熱唱した。そのあとぼくがオーラリーという曲を吹いた。

ネパールの人たちに拍手されてうれしかった。そして村の子がお礼にダンスをおどってくれた。みんなもりあがった。でも交流の時間が短かったのは残念だけど旅行のいい思い出になったと思っています。また、大人の皆さんにはお世話になり苦労かけましたが本当にありがとうございました。      おわり