50歳になって地獄の受験体験


病後の帰郷
  48歳


 私が49歳の夏、家族4人でお墓参りや同期会の参加のために北海道室蘭へ帰郷した。
長女は大学4年生最後の夏。愚息は高校生。妻は48歳。

私といえば椎間板ヘルニアの手術後9か月経っていた。車の運転は短時間なら出来たが長時間は無理で、長女の運転で東北自動車道路を八戸からフエリ−で室蘭へ上陸し、苫小牧の母の待つ実家へ帰った。

 その夏は故郷室蘭で中学同期会に参加。札幌では室蘭清水丘高校時の五十嵐先生を囲んで10人のミニ同期会もあった。46歳の春、藤岡で油絵2人展の開催を室蘭新聞民放社が大きく取上げたことを同期生は知っていた。小・中・高の同期生の蓮池女史に声をかけた。「僕は昔から何時か故郷で絵画展をしたい夢を持っている」と。

彼女は「私も仲間に入れてほしい、素人どうしで釣り合いがとれるわ」と私の企画に乗って話が進み、酒の勢いも手伝い「じゃあ、2年後でどうだろう」とんとん拍子で日時も決まった。翌日の室蘭港南中学同期会の席で皆に発表し協力をすることになっていた。二次会の席でマンガを描いたりチャンバラ遊びをする仲間だった中学校友人〔福山君〕が私に言った。

「三好君は、5年前に室蘭民報に掲載され我々の仲間では有名人だから頑張ってくれよ。ところで、あの時の新聞記事によると、1級建築士の資格を持って建築事務所を開いて仕事をしているそうじゃないか」


5年前の新聞記事


 私はその言葉を聞いたときに、5年前の室蘭民報記者寺井さんの電話での取材を昨日のように思い出し、急に酔いが覚めてゆくのを覚た。5年前の民報紹介記事の中でたった一行だけ間違った事が書かれていた。群馬で初めて開催した絵画展の紹介記事はこう書き出していた。

〔心の情景描き続ける群馬在住の三好さん46歳1級建築士は「青春のすべてが詰まっている」室蘭を離れて25年、藤岡市の地元で「郷愁の絵」の展覧会を開いている・・〕他の記事の中身は全て真実だった、私は1級建築士の資格は持っていなかった。後日、室蘭桐屋の油絵展覧会場で私は5年前の記事の話を寺井記者に話した。室蘭民報の寺井記者はその話を聞き終わると思い出すように、

 「三好さん、あの時の記事は苫小牧のお姉さんにも取材し書いたものです。どちらかの私を聞き間違えたのだとおもいます。申し訳ありません」

真相はどうだったのか今でもわかりません。私は〔1級建築士〕と間違って書かれたために、その時から記事の事を思い出すといつも気分が沈んだ。「三好は故郷遠く離れ住んでいて、故郷の人間には少しハッタリや適当な事を吹聴しても、ばれないだろうから嘘を言ったのだろう・・」そう思われると思うとふるさとを思い出す度に気が重くなった。

展覧会とは別に700キロ遠泳を目標に永年泳いでもいたために、中学校二次会の酒のほろ酔いもすっかり吹き飛んでしまった。人にとって気にならないことだろうが、この記事はその後さらに重苦しく私を縛っていった。


受験地獄街道ましぐら・・


 夏も終わって群馬に帰ってきた私は、10月募集の高崎専門学校の建築士夜間講座に入学の手続きを取った。いよいよ1級建築士資格取得の受験勉強のスタ−トをきった。

2年後の2人展と700キロ遠泳の前に資格を取得できれば、あの記事に対しくどくどとした言い訳を故郷の友人に一人一人に説明しなくてもいい。その一念で一発合格挑戦の決意をした。

しかし事はそれほど簡単ではなかった。錆が積もった頭と進行した心身の老化現象をわすれていた。勉強らしきものは25、6年前事である。私はもともと体育系なのであまり勉強は得意ではなかった。地獄の日々がやってきた。

 仕事の終わってから駆けつける夜間授業でおこなわれるスパルタ式詰め込みの激しい学習指導に毎日、青息吐息の連続で身も頭も過熱パニックの日々が続いていった。

何度となく受験を放棄し逃げだそうと思った。いっそうのことヘルニアでも再発し病気になればこの苦しみから逃れられる。そうすれば納得できる説明理由が自分自身にも周囲にも出来ると思った。

周囲を見回すと120名程の受験生の中で50歳の高齢受験者は私一人だった。殆どが20代後半から30才代。
私は毎晩の晩酌をやめた。テレビもやめた。町内の役員や夜の付き合いもすべて断り試験勉強に取り組んでいった。長年続けていた生活習慣を全て変えた為、身体に異常が出た。糖が出始めたのである。

夜の講義のために眠気防止にガムをむしゃむしゃ噛んだ。ガムは糖分が多くそれが引き金になった。何度もオチョコチョイに生まれついた調子者の己が性格を恨んだ。


成績はやっぱり昔と同じ・・・

 年が明け本格的な授業が始まった。2、3、4、5、6月と成績はいつも120人中「びり」から10番前後で8月の学科本試験までとうとう2か月を切った。学科試験は構造力学、建築法規、建築計画、建築施工、の4教科だった。大学の建築科を卒業してもなかなか一度では合格が難しく、5年、10年と挑戦する人も大勢いると聞いていた。私が大学で学んだのは経営工学だった。

 経験者には基礎がない受験の無謀さが理解出来るだろう。このままでは駄目だと決心し、2か月間仕事を半日休みにした。毎晩の酒も止めて夜中2時近くまで勉強した効果が7月の中頃に現れてきた。学科の成績はクラスの中の上ぐらいに上昇していた。

学科試験


 8月2日、第一関門の4学科試験当日むかえた。会場は前橋工業高校であった。朝起きると不思議にどうしたわけか、自然に次から次ぎへと笑いがこみ上げてきて止まらない。

地獄の受験の日々から開放されたという喜びで一杯であった。そしてやるだけのことは限界までやったというさばさばした心境になっていた。どうしてか考えた。試験に自信があったからではなく、もう明日からは晩酌も出来る。テレビも見れる。「ああーなんて幸せなんだろう!」

 50年生きてきてこんなに爽やかな朝を経験した記憶は、高校時代初恋の人と八幡様から測量山へ初デ−トの日曜の朝以来だった。学科試験は一番苦手だった最初の構造計算問題が解けたときに合格を確信した。


合格発表


 地元の新聞に9月21日、1級建築士の学科合格発表があり私の名前があった。勉強中受験生8人の若い息子のような仲良しが出来た。最高齢者の私を除いて残念ながら全員不合格だった。

この時、妻に一級建築士試験に挑んだ本当の「受験理由」を打ち明けた。学科の後は最も難しいと言われる設計製図の実務試験だ。この試験は学科の合格者だけしか受験できない。私が学んだ高崎の専門学校からは120名の中から13名が2次試験の設計製図に進んだ。

やはりここで最大の障害がやってきた。私は椎間板ヘルニア手術後1年半が経過していた。試験会場で中腰で描く設計製図は言葉に表せないほど私には辛くかった。わたしは困難な姿勢と会場での長時間の設計製図をやりぬくために、腰に負担のかからない特別な作図スタイルを研究訓練した。

 10月の試験会場で5時間の設計製図が終了したとき、私は椅子から立つことができなかった。受験勉強や試験中いつも椎間板ヘルニアが再発しないかとおびえていた。ヘルニアの手術して職場復帰できない人々を多く見ていた。試験会場からやっと車を運転し藤岡の家に帰った。

約1年に及ぶ受験勉強から開放され、久しく断っていたアルコールは全身を駆けめぐっていった。家族を相手にお喋りをしながら、久しく忘れていた心地よい眠りに落ちていった。


苦労は若いときに


 こうして私の50歳の挑戦は終わった。振り返ってみると人並みに高校、大学と受験勉強らしきものをろくにしないで合格し、受験に対する苦しい思い出は記憶に残っていない。

神様が、過去にろくに勉強もせずにただただ運良く楽をして進学した罰として、今回私をこうした年老いての受験地獄を与えたのだろうと今は真摯に思っている。若いときの苦労は買ってでもしろと言うが、その格言通り年老いての苦労の大変な事を骨の髄まで経験する羽目になった。

 最終試験の発表は12月22日やはり地元の新聞に発表になった。1日前の夕方専門学校担当者から合格が伝えられた。専門学校では新聞社から1日早く情報が入るので毎年前日の夕方合格者の生徒に知らせていた。電話を置いて振り返ると妻が目頭を抑えていた。

学校の話では、50歳代初挑戦1回で全科目合格したのは、全国北から南まで約6万5千人近い受験者の中で私ただ一人だったそうだ。

高齢者は目が衰えたり、記憶力や体力、気力、集中力が持続出来なくなるため、学科から長時間の設計製図試験の過酷な条件を克服出来ずに、年齢が高くなるにつれて合格率が急激に落ちてくるそうだ。幸い私はそんな事を何も知らなかったためと、北海道に帰るための一念にしゃにむに頑張ったのが良かったのかもしれない。

 年が明けた2月に専門学校に請われて次年度の受験生120名の前で講師として合格体験談を話したところ、受講生は息を殺して水を打ったように聞き入ってくれた。専門学校の講師達も私の体験談に目頭を押さえていたのが印象的だった。

 最終試験の終わった次の日から、私は来年の北海道室蘭での2人展の為大作500号の油絵制作に夜と休日を利用10か月間毎日休むことなく没頭した。平行して700キロの遠泳も受験勉強の合間に時間を見つけてはプ−ルに通い、予定に従い距離を加算して700キロ向こうの大黒島を思い浮かべ、プールに通った。


挑戦を終えて・・

 今こうしてあの炎の如く燃焼した2年間のことを思い出すと、夢のような気持ちで本当の事ではなかったような気がする。まだ記憶に鮮明に残っているうちにこうして記録に残しておこうと思いワープロで打っている。私を突き動かしたあの時の衝動は一体どこから生まれたのだろう・・
私の愛してやまない故郷室蘭の思い出と、青春を共有した人々の中から生まれた情動の成せることなのだろうと思う。

 絵鞆岬の冷たい海を泳いだあの輝く充実の夏の日から、はや1年半が過ぎようとしている。持てるすべてのエネルギ−を出し尽くしてしまったのか、この1年半の間ほとんど何もする気力が湧いてこなかった。

今年は充電が完了し、もとの心身に戻れるような予感がしている。私に忘れていた炎のようなチャレンジの機会と、触発の舞台をプレゼントしてくれた室蘭民報社の寺井記者、そして中学の友人〔福山君〕に心より感謝申し上げます。

現地室蘭では、中学、高校の同期生の皆さんに絵画展や700キロ遠泳をサポ−トしていただきこころより感謝申し上げます。

           1995・5・5  三好徹明 53歳

戻る