60年のあゆみ
 


(1999年4月の統一地方選挙に挑むに当たって、自らを公開するべきと考え半生を綴った・・・)


公人〔おおやけ〕めざす人間は、自らを公開する勇気を持たなければならない 
それができない人は公人になる資格を持たない  1999・2  三好徹明

目 次

1、  三好家の歴史

13、 政争の激しい土地

25、 1993年8月9日

2、  勿来(なこそ)の思い出

14、 男の厄年

26、 アイヌ伝説と完永

3、  はじめてみる雪景色

15、 飯塚毅と禅の世界

27、 「白鳥湾物語」

4、  海の河童

16、 キリスト教と少年

28、 五年かけた家づくり

5、  運動少年

17、 会社の解散

29、 東京・尾瀬で同期会

6、  受験と失恋

18、 700`遠泳スタート

30、 市議会議員口止め汚職事件

7、  スポーツから文学青年 

19、 椎間板ヘルニア

31、 義憤にかられ、市議選に立つ

8、 ドストエフスキ−実存主義と挫折

20、 故郷での同期会

32、 1253票最下位落選

9、  荒くれ世界の中で

21、 地獄と天国の扉

33、 正義を実践しない昔の仲間

10、 独立(会社設立」

22 受験勉強、スイミング油絵500号

34、 炎となってチヤレンジ

11、 建築設計施工会社設立

23、 苦労は買って出も・・

35、 ネパールの旅

12、 13年ぶりの帰郷

24、 500号「白鳥湾」

36、 高齢者福祉運動に参加

あとがき
1997年 藤岡市議補選 落選 1999年4月 初当選 2003年 2期目当選

 私の学校歴
 ・ 昭和二十四年  横浜市立潮田小学校入学 ・ 昭和三十年年  室蘭市立絵鞆小学校卒業 
 ・ 昭和三十三年  室蘭市立港南中学校卒業 ・ 昭和三十六年  北海道立清水丘高校卒業
 ・ 
昭和四十一年  神奈川大学工学部卒業

1・三好家の歴史

 
三好家は四国香川県鳴門地方の出身。

戦国下克上の時代に一時京都を占拠し歴史に登場した。現在も三好村として残る。三好を名乗る性の人は四国出身以外の人はいないようです。

江戸時代には家業として愛媛蜜柑を大阪神戸に運ぶ現代でいえば海運業を営んでいた。明治にはいり祖父が婿として三好家に入り家業を継いだが、家業を潰し一家を引き連れ樺太に渡も夢破れ、北海道で没す。
父鉄蔵は昭和天皇と同じ年齢。明治三十四生まれ三好家の九男として誕生。十八歳の折北海道を離れ横須賀海軍機関学校卒業。職業軍人として帝国海軍旗艦戦艦長門に乗艦する。当時皇太子だった昭和天皇と戦艦長門と共に世界各国を親善訪問する。


関東大震災に遭遇。横須賀沖合から引き返し全艦隊が被災者の救援に当たったと当時の生々しい様子を生前聞く。九段の軍人会館勤務の後、昭和石油〔現在の昭和シエル石油〕勤務。
 私、三好徹明は、昭和十七年五月五日サラリーマン家庭五人兄弟の三男として、神奈川県横浜市現在の鶴見区で生まれる。昭和二十四十二月、会社の命令で父親は、川崎製油所副所長から、北海道室蘭市に室蘭油曹所建設の責任者となり、初代所長として家族を連れて室蘭市に移住する。

2・ 福島県 なこその思い出


戦後間もなく私が四才のおり、石油精製所に欠かせない耐火煉瓦を自給するため、父の勤務する会社〔昭和石油〕は、福島県なこその煉瓦工場を買収。父は下命により、経営生産責任者として家族を連れ現地に赴任する。四歳から六歳まで約三年間家族とともに赴任。小高い丘の上の社宅は、南側に田んぼが見渡すかぎり広がり、秋には黄金の海原となった。丘の下には炭鉱会社の社宅があった。大勢の子供たちの仲間になり野山や、田んぼの畦道、炭鉱の「ぼた山」で遊んだ。

3・ はじめてみる雪景色 


一家は福島から再度の川崎製油所勤務を命じられ横浜で生活する。昭和二十四年横浜から北海道室蘭に転勤を命じられる。

昭和二十四年暮れの北海道室蘭の国鉄駅前は雪で覆われ、「ほっぺた」が痛い。小学一年生十二月初めて〔しばれる〕寒さを経験する。
「後にネパールの旅でカトマドウの街角は室蘭の赤茶けた街角に酷似していた風景を思い出し、五十一年前にタイムスリップする感覚を味わう」 
バスの車窓にはあちこちがリンゴ箱の木の板が張られ、隙間から粉雪が吹き込んで床に積もっていた。


バスは石油ではなく木炭を炊いて動いていた。
バスで一〇分も走ると、平屋建ての会社が手配した家に着いた。好奇心旺盛な中学生の兄は、早速私を連れて半島の山まえ向かった。一〇〇mほど測量山という三六〇度景観を堪能できる山である。私はこの山からみる眺望が大好きになり、一八歳進学の為に室蘭を離れるまでの一〇年間に三〇〇回は登ったであろうか。

〔現在の藤岡の自宅には、故郷の忘れえぬ此の景観を手元に置くために、二年かけて描いた五〇〇号の油絵が二階に飾ってある〕

4・ 海の河童


太平洋の荒波に浸食され男性的な海岸の景観
夏になると小学校、中学校を通じ朝から晩までこの海で泳いだ・・


 小学校一年のクラスで紹介された私が「横浜鶴見」 からひっこしてきたと言うと、ませた男の子が「ツルム、ツルム」〔動物が交尾する様子〕と言ってはやし立てた。私は最初彼らが何故さわぐことが理解出来なかったが直ぐにその意味を理解した。私がどぎまぎしなかったので、その事は長続きせづに、間もなく誰も口にしなくなった。私が萎縮していたら今風のイジメになっていたかもしれない。

すでにそれまでに私は、横浜、福島、横浜、北海道と四回引っ越しを経験していたために、環境にたいする適応能力が付いていたのかもしれなかった。夏になると仲間と一緒に、朝早くから暗くなるまで海で遊んだ。毎年裏も表も判らなくなるほど真っ黒に日焼けしたものである。


北海道の夏は当時三〇度を越す気温にはめったにならず、岩場で流木等拾い、焚き火で体を温めて潜るのである。ウニ、貝、つぶ、魚など焼いて食べる仲間達も、病院にだれひとりかかった者がいなかった。私自身、大学一年生の時に悪性の風をこじらした友人を近くの病院に付き添っていったとき病院の手続きが判らず、恥をかいたのを思い出すくらい、病気とは無縁であった。

5・ 運動少年

 
私は仲間より運動神経が発達していたようで、小、中、高校、大学を通じて唯一保健体育の成績だけは「五」であった。陸上競技、野球、バスケット、剣道、柔道、水泳、スキ−など殆どの競技をこなした。小学校のころ砂場で空中回転を器用にこなす事と。マンガの年賀状をもらったことなどを中学の男子が同期会の席で必ず口にする。 

少年時代は今思い出しても、勉強の思い出の記憶になく、遊んだこと、運動したこと、マンガ〔手塚治虫〕の模写を熱心にしたが、読書の記憶は残っていない。
現在振り返ってみると、少年時代のリズムがそのまま持続していて、水泳、スキ−、絵画など継続している。
高校時代は体操部を探したのだが、部がなく3年間柔道〔二段〕に没頭した。一、二年はスパルタ特訓で辛い灰色の高校生活を送る。

氷と雪に覆われている校庭で、裸足で受け身の練習をしたり、入学したての頃は柔道着の襟が固く、首の皮がむけて血が出ると、「ごりごり」わざと先輩が襟をこすり柔道着が赤く染まるこなど日常茶飯事であった。汗でぐしょぐしょに濡れた柔道着を夕方そのまま干して帰ると、次の日の練習時間までに、バリバリに凍ってしまう。それを裸の体温で溶かすのである。入部しても三年間続いたのは五名だけであった。一〇数人が退部していった。

おかげで、新聞に「内股の三好」といわれるほど強くなった。卒業時には大学等から誘われたが、柔道は高校時代のみと決めていたのでスッパリとやめてしまった。

6・ 大学受験と失恋

 
高校3年時は最上級生になり、柔道部では神様の位に就き〔体育系の部はどこでも似たようなものだった〕、やっと楽しい学園生活を謳歌した。我々の学校は北海道南部で有数な進学校だった。周囲の殆どの生徒は受験勉強に取り組んでいた。私は北海道大会出場のために、八月まで柔道をやっていた。受験勉強は九月から始めようと思っていた。七月になって体育祭〔全学年クラス別運動競技対抗戦〕が終わる。八月は、高校生活の最大のイベント学校祭がはじまる。当時は室蘭市の伝統的行事の一つだった。

学校や神社に泊り込み、何晩も徹夜で1年生から3年生までクラス別にそれぞれのテーマで作品を造るのである。港町を練り歩く伝統の仮装行列だ。夜は噴火湾をのぞむグランドで、仮装作品を積み上げ燃やし、夜空を焦がす火の回りを男女共学の全生徒たちが互いに肩を組、歌いながらのファイアストームがはじまる。当時流行った「星はなんでも知っている」の大合唱が三八年たった今も耳の奥で蘇る。
八月の学校祭で遅まきながら、下級生のガールフレンドが私にもできた。しかし一二月にはふられてしまい失恋の苦しみを人並みに味わう。

そんな訳で、大切な時期に心が他に行ってしまっていたので、受験勉強もろくに身が入らず、受験の苦しみもあじあわないまま札幌で受験。運良く神奈川大学に入学する事になった。
その時は、まさか三二年後、受験の真の苦しみをを徹底的に味わう事になろうとは知る由もなかった。

7・ スポーツ少年から文学青年へ

 
 私が横浜にいたころ、勉強嫌いの仲良しグル−プは、殆どが札幌で浪人生活をおくった。私は横浜のまかない付きの下宿で、仙台二高出身電気科の学生と間借りした。周囲には同郷の仲間が居ない環境でホームシックかかった私は、四、五、六月と夜になると、札幌の仲間達に飽きもせずに、手紙を毎日書いていた。

スポーツ少年であった私は進学に対して、他の生徒のようにハッキリした目的もっていなかった。高校三年間鍛えた肉体は運動を欲し、体操部を探したが休部中で、たまたまボクシング部に入部する。しかし足腰に筋肉の付いて太くなった格闘技用の身体は、ボクシング向きでなく一年で退部する。

このままでは何のために大学に進学したのか悩みはじめていた。一年間のボクシングのスパーリングで殴られたおかげで、頭の中が空っぽである自分に気がつく。一九歳の遅い春のことであった。私は師匠もいないまま、とにかく読書をしようと心に決めた。

「読書をはじめるにあたって、最初は手当たり次第、何でも読むことだ」と何かに書いてあったことを思い出し、素直に実践する。

三年間、来る日も来る日も西洋の文学書、思想書を中心に読書。その間は新聞、週刊誌、月刊誌など殆ど読むことはなかった。
何も詰まっていない空っぽの頭には、様々な世界が渇ききった砂に水をまくようにしみこんでいった。そして次第に現実からも遊離し別世界の住人になっていた。

8・ドストエフスキーと実存主義そして挫折

 
自己の内面を彷徨う日々のなかで、ロシア文学の世界とドストエフスキーに出会う。神と悪霊。実存の世界に引きずり込まれていった。

この頃になると、かって私が柔道で鍛えた鋼のような肉体の持ち主だと言っても、誰も信じてくれないほどやせ衰えていた。

現在体重は七三キロだが当時は五五キロであった。やせたとは言え、長年の運動週間で筋肉は負担を欲し、夏になると近くのプ−ルにかよい、暗くなるまで泳ぎバランスを求めた。

「罪と罰」のラスコリーニコフ的内面生活が、二階の六畳一間の貸間で、動から静へ、明から暗へ行動から思索へと約三年間ほど続いた。ドストエフスキー最後の作品「カラマーゾフの兄弟」は私のバイブルとなった。三人兄弟の三男アリョシャがギリシャ正教ゾシマ長老のアドバイスに従って協会を出たところで物語は終わっている。

ドストエフスキーは第三部でアリョシャの物語を書く予定だったが未完のまま病死しまう。
私は子供のころキリスト教会にかよい子供心に神の存在を恐れるようになっていったが、アリョシャが教会を出た「章」に出会ったとき、私もながい呪縛が解かれ、キリスト的世界観の外え出ていた。ソクラテス、プラトン。キルケゴール、カミユ、ベルジャーエフ、ニーチエ、カミユ、サルトルと実存思想の深い霧中を徘徊した。
大学生活も最後を向かえ就職も内定していたが、一単位を落とし留年となった。

私は学生生活三年間、読書三昧の日々の中で人生の疑問を解こうと彷徨っていた。留年となり、現実からかなり遊離している自分に気がついた。
二一歳の遅れてきた私は卒業を目の前に現実の厳しさに遭遇。遅まきながら、もやしのような目の前のひ弱な自己の存在に驚愕していた。

9・ あらくれ世界の中で・・


 大学選択科目で「信太先生」の倫理学の講義受けた私は、生産性技術や、労働生産性向上などテーラー式科学的管理法に遂に馴染まず、心理学や哲学、文学に関心を移していった。

私は大学を四年と留年の計五年〔1週間に1時間の講義を受ければよかったので働いて生活をした〕かけて卒業。
一年間のアルバイト生活の中で経験した中で印象に残ったのは「沖仲仕」の仕事だった。

桜木町の駅前や埠頭で、手配師連れられて沖合の外国貨物船の荷卸しや積込みが主な仕事だ。
国籍不明の怪しげな人々に混じって危険な仕事をしながら、最低辺で生きる人々の中に入った。

就職では、学校で触れた学問とは無縁の世界の建築現場技術者の道を選んだ。東京秋葉原の中小企業に見習いとして入社。竹ぼうきを持って現場の掃除と片付けのあいまに、スケッチブックに道具や機械工具、建設技術を丹念に写生。現場技術の、イロハニホヘトを身体に記憶させた。

職人さんの手伝いを積極的にしたおかげで、職人衆に可愛がられ、その後現場監督に昇格してからは、各職方が協力してくれ、現場もトラブルも少なく見習いを始めて六か月後、中央線中野駅から程ちかい、食品スーパーマーケット建築工事を初めて現場責任者としてまかされた。2年、3年と建築の学校を出た先輩達が、まだ助手として独り立ちしない中での人事で、私自身が面食らったのを覚えている。
当時売れはじめた「北島三郎」が近くに住んでいて建主の店によく買い物にきていた。

二十四歳で結婚。世田谷の六畳一間で新しい生活がはじまる。二十三歳から三十歳で退職するまでの間、一〇現場を責任者として任され無事に完成させる。一番最後に責任者として指揮をとったのは高島平団地の近くの流通センター二五億円の工事現場であった。工期は六か月間、現場に泊り込み徹夜の連続で数回疲労のために倒れるも予定通り完工。

当時、ウオッカを一本空けてもなんとか翌日仕事が出来るほど体力があった。現場を離れて営業部に配置転換になり官庁営業、民間営業と経験する。環境の変化で心身が変調をきたし、新しい環境に慣れるのに3か月ほどかかった。

10・ 独立〔会社設立〕                 


 埼玉県越谷市にオール借金で土地を購入。マイホームを建てる。二九歳。

この時期を境に、このまま会社人間で終わるのが不安になってくる。特に営業を経験してからは、様々な世界を知るにしたがい、自分なりの営業方針を考えるようになる。次第に、会社の方向と自分の考えがかみ合わずストレスが溜まり、独立を考えるようになる。
三〇歳。 東京赤羽で果実小売店経営を営む人を交え、四人で建売会社を設立役員として参加。
埼玉県本庄市に営業所開設。土地取得、設計、造成、建築販売の建売分譲住宅事業を始める。
独立の意欲に燃えて睡眠時間四、五時間ぐらいのまま頑張る。建設不動産業界の裏表を見聞する。既に亡くなった不動産建設事業者の経営者の悪徳商法の手口を本人から直接聞く機会を数多く得たが、儲けの為には手段を選ばない守銭奴のような業者とは徐々に距離を置いていった。

11・ 建築設計施工 会社設立


 埼玉県越谷から群馬県に通勤するために、当時、往復四時間近くかかった。二年目に過労のため深谷日赤病院に緊急入院する。後にサラリーマンの過労死が問題になる一〇年ぐらい前だった。

退院後、越谷の自宅を処分し、藤岡市栄町に家を建てて藤岡住民となる。住宅建築設計施工会社を設立し代表者に。
「グリーン建設工業株式会社」。

当時、行政書士事務所を既に開設してあったので自分の手で全ての諸申請手続きをした。藤岡市に移住した次の年に長男誕生。したがって長男の年齢でこの土地の在籍期間がわかる。
足場もなく、財産的基盤もなく信用も、親戚、学校の先輩、後輩も全くいない藤岡市での営業活動は困難をきわめた。
一〇年辛抱して地元の人々に名前を知られ、信用の基盤が出来上がっていった。

12・ 13年ぶりの帰郷 

 
三五歳。私は大学を出てから初めて帰郷した。

数えてみると社会人になって一三年間も北海道には帰っていなかった。結婚したときも、子供が生まれたときも、一度も帰れなかった。生活と仕事に追われ、心にまったくの余裕がなかったのと、身内に不幸もなかたから・・。

帰郷するときには「絶対にかって来たときと同じように上野発の急行列車で帰ろう・・。一つ一つの大切な思い出を心の奥から呼び戻すには、閉まったときと同じようにゆっくりした時間が必要なんだ」とかたくなに心に言い聞かせてきた。
一三年ぶりに乗船する青函連絡船の少しすえたような匂いや、行商の人も大きな荷物を背負い昔と同じように船に乗り込んでいた。船内が新しくなって、人々の身なり小ぎれいになった他は何もかも昔のままだった。

この海峡を何度渡っただろう、イルカの舞う海を飽かずにながめていた。
室蘭本線は噴火湾に沿って鉄の町室蘭につながっている。快晴の時には伊達市の海岸から微かに室蘭半島がのぞめた。視界に次第に大きくなる我が故郷を車窓から眺めるうちに、視界がぼやけ周囲を気にしながら声を殺して泣いた。

13・ 政争の激しい土地 

 
藤岡市の住民になって知り合った親切な友人が「藤岡青年会議所」への入会を進めてくれた。

三四歳。入会年齢制限の一週間前だった。多くの商工業者の二、三代目との面識が広がった現在も多くの人と取引を継続している。青年会議所運動で一番印象的で、自分に合っていった事業は「中学生の史跡めぐり」だった。その事業を通じて、多野郡の多くの歴史遺産に触ることが出来、藤岡市の歴史を知った。

一九九〇年春。半年をかけて「平井城と城下町」の想像鳥瞰図を描いた〔後に絵はがきにする〕。当時、青年会議所の内部は何時も「福田」「中曾根」と2派に分かれ理事長のポストを争っていた。中曾根派を仕切っていたのが一九九五年市長に当選した塚本昭次氏である。
私は、何方の仲間にも加わらず現在に至っているが、市そのものが何時も二派と小淵派に分かれ市議会、市長、県議会議員選挙と争いを続けていた。仲間意識が強く、争いの後遺症は地域の経済活動やまちづくりなどにも多くの弊害を生み、現在に至っている。

14・ 男の厄年


 一九八〇年代には藤岡第一小学校、藤岡東中学校の役員引き受ける。教職の方々と多くの面識が出来る。建築業もほぼ軌道に乗り各種団体の役を引受る。毎年年末の忘年会と年が明けての新年会が一段落する二月になると体調が狂った。アルコールなどの過度の飲食と、不摂生と不規則な生活であることに気がつく。年齢は四〇歳になっていた。体重は八七キロを記録し動きも鈍く、冬になると足の裏が痛みを感じるほど冷たくなり異常を自覚する。

初めて人間ドックにはいる。中性脂肪が多く、医者にアルコール制限を言い渡され、運動を勧められる。同時に煙草をやめた。考えてみると昔から言われる男の厄年の年齢であった。藤岡美術会に入会作品展に出品をはじめる

飯塚毅の世界


15・飯塚毅と禅の世界


≪自己探求 飯塚 毅著≫
・教訓を謙虚に教訓として受け止める素直さこそが、人生の決定因子。人生は可変である。
・人間の行動は人間の認識とは関係なく、内面的衝動により決められている:ショーペンハウエル
・自分の行動決定は、自分が自分だと思っているものが決めるのではなく、自分の内部の無意識部分が決めている:フロイト
・克己:己が己に克つこと,一つの体に己(精神)が二つ以上あること
・王陽明:人間の心には、表面意識と潜在意識があり、人間の行動を決めるのは潜在意識のほうだ
・「純粋理性批判」
人間の外界にどんなものが実在するかは人間には分からない。ただ感覚的に認識しているものだけを実在しているとおもっているだけなのだ:イヌマエル・カント
・人間最高の生きざまのさん条件
 信ずること  洞察力をもつこと  絶えず自分の心を耕すこと
・二念を継がない
 多くの人は意識が次から次へと出てきて、意識の連続態の中に住んでいて、これが発想法のくせをつくります。これを避けるためには連続しそうな自分の意識について、決意して第二念を起こさない、つまりはじめに出てきた意識をそのまま消して連続させない工夫が必要になる。この二念を継がないことができると初念をも持たないようになる。

・恐怖感というものは一度克服するとそれ以降は全く現われないものではなくて、常時頻繁に顔をもたげてくる性質のもので、精神生活上の重大な課題である。恐怖感を解消するには発声根源に遡り調べることが大切であるが、多くの人はこの体験を持とうとしないので生涯にわたり、恐怖感から離脱ができない。

・殺せ殺せ己を殺せ殺し果てて何も無きとき人の師となれ:至道無難禅師
 自我の意識を徹底して抹殺しきった彼方にこそ、人の師となる資格が生まれる。


飯塚毅との出会い


 学生時代に、禅に対しての関心を持っていたが触れる機会を持てずに四〇歳を越えた。あるとき知人の持ってきた講演会のテープの中の一本に〕飯塚毅〔TKC創立者〕の禅の講義録があった。それがまさに遭遇と言うに相応しい出会いであった。飯塚毅の全集読み、全ての講義テープを取り寄せ毎日繰返し聞く3年間がすぎた。

禅の世界観は自分のもやもやしていた人生観にまさに命を吹き込んでくれた。当時、布屋の大戸章義さんに連れられて高崎の曹洞宗長松寺に早朝座禅に半年ほど通う。そののちも駒沢大学座禅会で、鶴見の総持寺福井の総本山にも参禅に出掛けた。

「みずや君 明日は散りなん 花だにも 命をかけてこの時を咲く」 山奥の誰も近づけない谷間の底で人知れず咲く花でさえ、命いっぱい今を生きる。私は禅が開いてくれた生命の実相を受け入れた。

16・キリスト教と少年

 
四五歳、私のなかで育っていった信念を行動に移す機が熟していた。子供のころから心の隅で金は汚いものという観念が住み着いていた。

長じてそのル−ツをたどってみると、子供のころの体験に行き当たる。北海道室蘭で過ごした小学校、中学1年のころまで夏休みになると隣の空き地に3週間ほどキリスト教のテント教会が毎年やってきた。そこで聞く聖書の教えは、少年の私に大きな影響をあたえた。

「神の国へは何も持ってゆけない。人間世界の名 誉も地位も財産も金も・・・」
「滅びに至る門は広く大きく、命に至る門は狭く 細い・・・マタイ伝」
今も魂の奥底で鳴り響いている。

資本主義社会で営利を追求する株式会社を経営するのに何の疑問も普通は持たない。しかし、私の心の隅でいつも「うしろめたさ」が追いかけてきた。上記の少年期に刻み込まれた聖書の影響下に四〇歳を越えても置かれていたことに気がついた。今風に言えば少年期の「マインドコントロール」の影響を時間が経っても払拭出来なかったということだろう。


17・ 会社の解散


 私のなかで禅に触れることで、営利を目的とする形態〔株式会社〕の存続の意味が明快となる。結論は、限りなく欲望を刺激続けなければならない組織を継続する事は自分には合わなかった。

企業を大きくすると言う野心と、心の底の哲学が反対を向いているということは、車のアクセルを噴かしながら、ブレーキを同時に踏む矛盾であることを理解した。

四五歳。グリーン建設工業の解散を決意する。
実質的に解散処理は約三年間かかった。世のなかは地価がどんどん上がり、バブル経済の最盛期で好景気に沸き立っていた。
関連の協力下請業者のみなさんも仕事が沢山あり私の会社が消えても、影響はほとんどない状況であったので、混乱もなくスムーズに自主解散手続きが完了した。受注も沢山抱え、内容も良い会社をたたむのに解散の真の理由を話すと長くなるので、関係者には病気が原因で会社を解散すると説明した。

18・ 七〇〇`遠泳スター


 高校生の長女が私に誕生日プレゼントをくれた。「お父さんがいつまでも健康のための水泳が続くようにお父さんの故郷まで泳いで下さい」

といって直線で藤岡、北海道室蘭間直線で結ぶ手書きの日本地図をくれた。直線距離で丁度七〇〇`である。

私は表を作り五〇歳の夏に丁度六九八`になるように作成し、最後の二`を故郷の半島の沖合約二`の島に渡って半島の岬をゴールとする計画をたてた。六九八`は藤岡で通っているナガイスイミングのプールで週に三回平均一回一`を泳いで表を埋めていった。
泳ぎはじめて一年が経過した頃、奥さんをガンで無くした旭町の高橋正治さんと藤岡のタナカスタジオで「我流二人展」を開催する。

故郷の友人を通じて絵画展を知った室蘭民放社が、詳細に大きく紙面をさき室蘭で報じた。
北海道から友人、知人から掲載された新聞がいくつも送られてきた。後にこの記事の中の一行の間違いが人生の方向を変えてゆくことになる。


19・ 椎間板ヘルニア

 
平成二年四八歳。法人を解散し個人業に転換中に過労がたたり、椎間板ヘルニアになる。島田記念病院三ヵ月牽引後、回復の見込みがないと判断し医師に手術申し出る。約四ヵ月入院し、平成二年一二月に退院。青春時代のバイブル「カラマーゾフの兄弟」を再読する。

回復の見込みも経たないままの三ヵ月間は人生で初めて絶望感を経験する。各病室からもれる物音を聞き、消灯した部屋で人生を振り返る時間を持った。隣の部屋では八〇代の老人が足や腰を傷めて長期に入院していた。壁越しに漏れてくる、それぞれが持つ事情の高齢者がやっかい者にされてしまっている現実を垣間見る。

私自身子供のころから人並みはずれた体力を保持していたため、体力のないもの、気力の無いものに対して何処かで思いやりに欠ける行動をしてきた。しかし自分がいとも簡単に枯れ木のように

ポキリと折れた体になった。「なんともろいものか」。ベットの上で、もし再び社会復帰出来るならば今度は、弱者の立場にたった行動と活動をする事を心に誓った。ベットの上で故郷のことを考え続けた。室蘭港の鳥瞰図やたくさんのスケッチをした。そして白鳥の塔の建設を思い立つ。宗旨宗派に関係ない少子高齢化の時代に遺骨を納める納骨堂に世界中から希望者を募り、数百万の遺骨を納める[白鳥の塔]構想を練った。白鳥湾物語に描写した・・。

20・ 故郷での同期会



 小学校、中学校時代、私の住まいの前に同級生の女子〔Y子〕がいた。家が貧しく芸者あがりの母親は家計のやり繰りが下手だったと子供のころ大人が話していたのを覚えている。Y子は子供のころから成績が良く大人びていた。私は勉強が嫌いで冬はソリや雪遊び、夏は四方を囲まれた海であそぶ暴れ者だった。

Y子は貧しい家庭の事情で、高校進学を諦め家計を助けるために昼間働き夜学へ通った。程なく勤め先の上司と深いなかになり、土地を離れていった。その後、彼女とは三四年間音信不通だった。ヘルニアの手術後のリハビリも順調に進み、その夏に家族四人で帰郷することになった。

そんな折り送られてきた同窓会名簿の中にY子の消息があった。私は病気をして人の心の傷が少し判るようになっていた。手紙でY子に同期会への出席をうながした。私も含めて出席した五〇数名の同期生もY子に合うのはほとんどが、三〇数年ぶりであった。

二次回のカラオケでY子が万感を込めて熱唱する、「大月みやこ」に同期生は泣いた。今彼女は札幌で五〇歳を過ぎて内縁関係を清算したという。最近お店を買い取り、社会人になった一人娘と美容院を経営している。

21・ 地獄と天国の扉


 平成三年八月、四九歳の旅は四〇代と決別の旅であり、新しく始まる激動の五〇代の前触れの旅でもあった。四〇代最後の旅の土産に、二つの重荷をみずから背負ってしまった。

一つは、同期生と二人で、二年後〔五一歳〕に地元室蘭で絵画展を開催し、私は七〇〇`遠泳を完成させることを公約した。

               もう一つは、経緯を書くと長くなってしまうので簡単に要約すると、四四歳のおり高橋正治さんとの二人展を、地元の室蘭の新聞が大々的に報道したことを先に書いたが、その記事のなかで一か所だけ間違った記事があった。私は当時まだ会社を経営しており一級建築事務所を従業員資格で登録し営んでいた。記事は 私が一級建築士として仕

事を直接していると書かれていた。しかし私自身は建築士の資格は持っていなかった。
つまり、五一歳の故郷での絵画展や七〇〇`遠泳のときに皆に記事の間違いを弁明するか、それまでに一級建築士の資格を取得するかの二者択一を迫られてしまった。これは純粋に自分自身で決断しなければならない問題だった。
そんなことどうでもいいじゃないかと言う人も煎るかもしれない。しかし私は弁解するのが嫌だった。私は後者を選択した。その時は地獄の門を開けたとは自覚していなかった。

22・ 受験勉強と水泳・油絵500号の制作


●1年間、私の1日の生活スケジュール  
(49歳ーー50歳)

時 間

平日 生活スケジュ−ル

午前8時5時

建築現場作業         8時ーー5時

12:0012:45

スイミング 40分 週3、4回    

午後6時ー9時       

日健学院高崎校3時間  毎日高崎往復1時間             

10:00   ー12:00

予習、復習  平均2時間 自宅学習       

午後12時

就寝

日曜すべて特別講座

平成五年、五〇歳〔受験勉強で酒とテレビを自粛する〕
当時の二年間の生活は左記のごとくである。日曜日は500号の油絵制作

当時の日記を見ると成績悪し、毎日行われる学校でのテストでは何時もビリから3番目。当時高崎校には一二〇名ほどの社会人が通学勉強していた一級建築士は大学や専門学校の建築科を卒業して一定の実務経験をへなければ受験資格を得られない。また二級建築士を取得して四年の実務経験を経なければならないとされている。私は建築科を出ていないが、二級建築士の資格を持っていたので受験資格はあった。

社会人になってからの勉強がいかに大変か体で教えられた。当時私自身受験生のなかで高齢者だったが、私より年寄りが数名いると思って安心したが実は、私が最高年齢者だったことを後で知る。二五年ものあいだ勉強をしたことがなくすごし、高校生の予備校スタイルのテレビモニタ−によるスピ−ド授業についてゆけなかった。そして何よりも物覚えが悪い上に、覚えてもすぐ忘れてしまうのにはほとほと涙が出たものである。少しずつ日がたつに連れて慣れたころには学科の受験が迫っていた。

23・苦労は買ってでも・・


私は自分に対して勉強を放棄する言い訳を探した。

「このまままたヘルニアが再発すれば受験を放棄する口実が出来るのに・・・」

実際、長時間同じ姿勢で勉強を続けるのは手術後日の浅い体には拷問のような苦しみであった。手術ご丁度一年が経過しようとしていた。
八月の学科試験を向かえた朝を今でも鮮明に思い出す。
朝起きると、空気の味も太陽の光もいつもと違って輝いて新鮮であった。
そして心は浮き立つように爽快であった。私は不思議に思った。これから前橋の試験場に向かい受験する緊張がまったくないのである。
「何故だろう、いったいこのこみ上げてくる気持ち良さはなんなんだろう・・」

すぐ理解した。試験に自信があるからではなくやっと自分を縛りつけていた勉強からのがれられ、地獄の日々からの開放の日を向かえたのだと言う歓喜だった。

「禁酒を解き予習とテストからの開放され、明日から晩酌出来る。
テレビも観れる。ああー何て幸せなんだろう。
自由とはなんとすばらしいことなのだ・・・」

九月、合格結果の知らせが電話で届いたとき、後ろを振り返ると、妻が泣いていた。
私はこの時初めて妻に受験の真の理由を話した。
一〇月に学科を突破した人達が受験できる二次試験、設計製図も無事突破した。知力と体力を極限まで集中させる過酷な試験のために、その年に受験した全国の五〇歳以上の受験者で、一回で合格したのは全国で私一人だった。

勿論受験の理由を人に話しても、にわかには信じてもらえなかった。
私は若いときに苦労しなかった分、神様が、帳尻を合わせるために五〇歳を越えて人の倍の罰を私に与えたのだろうと今になっておもっている。


 次の年に合格者体験談を発表してくれと学校に言われ、120名のこの年の受講生の前で20分時間をもらい話した・・・。受験者の苦労を知っている学校の職員の何人かは私の話に目頭を抑えて泣いた。
手元にこのときの話したテープがある。たまに聞くがいつも聞きながら泣いてしまう・・・。

24・ 500号「白鳥湾」


自宅2階を飾る油絵、室蘭港500号


試験の為に一時中断した途中まで描いた油絵が事務所の二階に掛かってあった。


いよいよ残り七ヵ月で完成させなければならなかった。そしてまだ一〇〇`近くの残っているプ−ルでの距離を縮めなければならない。
室蘭港は昔、先住民アイヌの時代多くの渡り鳥が羽を休めるために飛来した。外海から手で囲むように半島が抱え込む自然の良港であった。
岬の先端から対岸に九八年六月に白鳥大橋が完成した。五〇〇号の油絵は九二年から描きはじめたからもちろんその時点で想像図である。

長さ八m×一、四mの壁画のような大きさになってしまった。
なぜこんな大きな絵になったかというと、私の育った半島に測量山という二〇〇メ−トル程の山がある。子供のころから数えきれないほど登って眺めた故郷の景色だからだ。三六〇度眺望できた。そして白鳥大橋は地元の人々の長年の希望であり夢であった。私はどうしても絵に白鳥大橋を描きたかった。

25・ 1993年8月9日


五一歳。北海道は寒い夏だった。

私は中古のワゴン車を手に入れて40点の作品を積込み、直江津から苫小牧港までフェリーでの旅だった。四〇歳の前半に八七`あった体重は七一`まで絞り、ヘルニアの再発対策に毎日二〇〇回の腹筋運動と、上半身のウエイトトレイニングを欠かさなかった。

この年は異常気象で日本中冷夏に襲われた。北海道も東北から冷たい風が吹き海水の水温は一八度から上昇しなかった。六年前に私を紹介してくれた室蘭民放社が特集記事で何度か報道してくれた。

中学校同期生も高校同期生も、イベントにあわせて同期会を開催励ましてくれた。一週間の絵画展が終わり、八月九日に向けて何十年かぶりの故郷の海に体を浸し調子を整えた。
しかし水温が低いため一〇分と入っていられない。沖合に浮かぶ島から此処までは全力で泳いでも四〇分はかかる予定である。小学校の時からの級友の久保田漁師は「三好この風と波は危険だから外海はやめて湾内にしろ」とアドバイスをくれた。しかし七年間この海を泳いでわたる為に積み重ねてきた七〇〇`の最後ゴ−ルはどうしても此処を泳ぎきらなければ完成しないと、迷うことなく決めていた。

26・アイヌ伝説と完泳


午後一時、久保田君の漁船で島に渡る。
同級生が五人乗船小学校から大学まで一緒だった戸井田君にビデオ撮影を頼む。
新聞社記者も同乗。島には観光で訪れた人達が新聞で見たらしく大声で応援してくれた。全身に油を塗る。少しでも体温の低下を防ぐためだ。外海は風が強くかなり荒れていた。
荒れた海はどす黒い色をしていて不気味である。島はアイヌ伝説の黒百合の花が咲くことで知られていた。私が現在書いている「白鳥湾物語」にもこの島を舞台にピリカメノコが登場する。
島の西側から黒い海に飛び込む。岩場の近くの海底から長く伸びる藻をかき分け外海へでた。四〇分以内に泳ぎきらなければ体力を消耗し何が起こるか判らなかった。

中間点にさしかかると三m近いうねりが進行方向から波頭の牙を向いて襲いかかる。クロ−ルのかき手が時々空を切る。
後でビデオを見ると風が唸りを上げる様子と高波と闘いながらすすむ自分が写っていた。
港から吹き出てくる潮にながされながら、突き進む漁船の出入りにも注意を払わなければならなかった。
もしかしてこのまま暗い海底にのまれて終わるかもしれない。走馬灯のように過去が巡った。
心は妙に落ちついていて、体力はまだ残っていた。絵鞆岬の海岸にちかずくにつれ、牙を剥いた波頭は静まり、穏やかな海へ変わっていった。海岸で見守ってくれた同期生が火をたいて私の冷えきった体を温めてくれた。漁師久保田君の庭で成功を祝って、磯の恵みを皆に振る舞ってくれた。
二年にわたり全てをこの一瞬にかけた挑戦は無事に終わった。51歳の長い寒い夏だった

27・「白鳥湾物語」


凝縮した数年の疲労がドット押し寄せ、約二年間ほど何をやってもなかなか集中力が戻らなかった。私は子供のころから日記やマンガを書くのが好きで暗いところで目を悪くしてしまった。

七〇〇`遠泳が終わった年の暮れに、ワ−プロを購入「白鳥湾物語」を書きはじめる。
主人公は知人、級友など一〇〇人近く登場する。構成は、それぞれの過去と未来と現在を行き来する物語にした。現在、第一部が完成したが、原稿用紙七〇〇枚程で中断している〔忙しいので〕。しかし頭の片隅で時折、構想が膨らんでいる。
目標は六五歳で完成の予定である。

28・ 五年かけた家づくり


自宅前の田んぼ


藤岡市栄町から芦田町へ住所を移したのは平成七年だった。平成四年から八年までの約五年をかけて自分の手で旧事務所を住まいに改築する。

三〇年近く建築の世界で仕事をするうちに、大工技術を覚え、家を設計から完成まで自分の手でいつの間にか出来るようになっていた。

椎間板ヘルニアのリハビリのためにも、適度に体を動かすことが日常生活の上でも必要であった。光徳寺の石門のわきの民家風漆喰の家になった。改築だったが、内外とも仕上げは杉の木と漆喰仕上げにした。木は再利用でき漆喰は化学物質を出さない古来からの日本人に合った素材だ。
平成七年に二〇年住んだ栄町の自宅は売却。平成八年SERA美術造形館を手つくりで完成。貸しギャラリ−として開放する。

個展開催 新井勝美/布施英治/野村邦夫・・敬称略 久保 正/中野由起子/布施音 ネパール展/宮下幸枝/後藤  常設展協力/小坂元二/森田修平木工芸・陶芸展 塩原/前原/三好/斉藤・木村/栗原

29・ 東京と尾瀬で同期会


浅草雷門前にて 港南中学同期生


五四歳の二月に結婚三〇周年を記念して北海道の母を温泉に連れてゆき親孝行の真似事をする。

それに合わせて、中学同期生、高校の同期生が札幌、室蘭でそれぞれ私のために四回の同期会を開催してくれた。
なぜそんなにも歓迎してくれたかというと・・
九五年秋には中学の同期会を東京で私が企画し開催した。初めて飛行機に乗った人もいたり、上野での宴会では四〇年ぶりの人達や、恩師の挨拶にみんなハンカチを濡らした。九六年夏には高校の同期生三〇名を、尾瀬に案内した。そんなわけで私達夫婦を皆で歓待してくれたのだった。北海道の冬の味覚は贅沢の限りで、帰ってくると2`も太って元に戻すのに苦労した。

30・ 市議会議員 口止め汚職事件


一九九七年一月 藤岡市で前代未聞の事件が発生した。後に争われた前橋地方裁判所で行われた公判を傍聴し、事件の全容が明らかになった。

事件は毎日新聞記者が井田博市議から相談を受けたのを幸いに、井田の弱みを握り巧妙に彼ををゆすったことが発端であった。

毎日新聞記者は数回に渡って井田をゆすり、もうこれ以上無理と分かると、市議の山田、針谷に情報を流した。今度は彼らが中心となって執拗に井田をゆすったのが「口止め汚職」の全貌である。

この事件に係わった六人が逮捕され、他にも数人の市議がかかわっていて、ある議員はいつ逮捕されるか夜も眠れない毎日を送っていたという。その捜査の過程で市議会議長にからむ金銭授受が慣例化しており、二名の市議が逮捕された。
計八名の市議会議員はどういうわけか全員現市長塚本派の議員であった。この事件は全国の話題になり、新聞、TVなど多くのマスコミにより連日報道された。海外でも笑いの種として報じられたそうだ。良識者の多くは市外に行くと肩身の狭い経験を味わったことだろう。

31・ 義憤にかられ、市議選に立候補


2月、私は自薦で市議会に立候補する決心を固めた。家族はびっくりしたが、言いだしたら実行することを知っていて、まもなくあきらめる。

この事件を生んだ土壌をに対して、市民の多くは、議会や議員批判の言葉のわりには、それ程深刻さを受け止めていないように感じた。

民主主義とはなんなのか。相対的価値観を中心に構成された社会が皆で造った汚職事件。

市民の本音が何処にあるのか、自らリトマス試験紙となって、問題の本質を市民の前に明らかにしようと立候補した。
選ばれる側の人間が何を思い、何をしようとして立候補するのか、積極的に自らを開示しなければ有権者に選択肢あたえられない。当選は結果であり、大切なのはプロセスであること。運動として自らの理念政策を市民に向かって発し、共感共鳴者、理解者を得るかが戦いの全てであった。街頭演説を中心においた。

運動員も、ウグイス嬢もいない、手弁当の人々が支えてくれた。

32・ 結果は一二五三票最下位落選


 一九九七年三月九日。「藤岡市議会議員口止め汚職」世間注目の補欠選挙は終わった。


一二五三票最下位。私の戦いの結果である。
数人の人から「あなたは選挙の前も後も全く変わらないそんなひとを見たのははじめてだ」
何故そのような印象を持ったのか考えてみると、殆どの立候補者が、当選しても落選しても選挙の洗礼を受けると精神に多大な影響を受けて、人間性が変わるものらしい。私自身、当然のことながら選挙前も後も現在も、内面も外面の変化も起こらない。

何故なら、自分の正しいと思う行動を正直に実践して得た結果であり、選択するのは私ではなく、有権者一人一人だからだ。落選しようが当選しようが私自身の存在の価値が、自分のなかで変わるはずも無いことは分かっていた。
一二五三人もの方が私の行動に共感してくれたことに、藤岡は根っこまで腐っているわけではないと、かえってホッとし希望を抱いた。

33・ 正義を実践しない昔の仲間


かって青年会議所運動を共にした地元育ちの人達が、友情と自己の利益をからめながら、私に現市長派の支援を受けないかと再三接触してきた。告示になってからは「とにかく市長に会ってくれ」とセッテングされたが、私は丁重に申し入れを塚本市長本人の前で断った。


私の信念は「票」とか「当選」とかの目の前のニンジンで揺れ動いたりしなかった。
生意気だと、かっての会議所仲間達に運動を邪魔され、悪意に満ちた中傷をながされたものである。「三好は北海道に帰るんだ。あんな者に票を入れてはならない・・・」

自分の故郷を愛せない、故郷を誇りにおもえない人は、人として哀しい気の毒な人間だ。私は自分の生活を犠牲にして、藤岡市議会に立候補した。失った市民の誇りと自信を取り戻し、開かれた議会改革のために行動を起こした勇気と気概を認めようとしないで、

自らは行動を起こして傷つくのを恐れ、周囲を気にするあまり発言も行動も出来ないでいる人、そんな人に私を非難する資格などない。

かっての知人に多くそのような人がいることが選挙を通じてわかった。選挙は不思議に係わる人々の人間の本性や人間性をあぶりだしてしまう。

34・ 炎となってチャレンジ


落選した翌日から支持者にお詫びと、お礼の挨拶に回った。芦田町のY宅を尋ねた。ねぎらいの言葉をかけられたとき、抑えていた感情が一気に爆発した。車に乗っても涙が止まらない・・・「このまま引っ込んでたまるか!私利私欲を離れてこの土地を建て直そうと思い純粋行動を邪魔した連中に負けてなるものか!

 正義は最後に必ず勝つ。

神がこの地上に見えない秩序を張りめぐらしているその本質を魂でも、体でもお前は悟っているではないか・・・」
私は一二五三人の方々の良識を拠り所に、再び一九九九年四月の統一地方選挙に向かって一人で活動をはじめた。

補欠選挙のときよりも、もっと高く「共生と自立」の理念の旗を掲げ、悔いのない運動を支援者の一人一人の方々と思いを一つにして行動して行く覚悟を固め運動を開始した。


35・  ネパールの旅


一九九七年一〇月初めての海外旅行に出かける。

ネパール山村支援のボランテイア旅である。片品村の萩原さんと、山間地帯に入っていった。私は建設業を一五年間経営していた間、海外旅行の誘いが沢山あった。

高度成長成金の日本人の売春ツアーが多く企画された。貧しい国々の人々を金で買い「後進国の貧しさをを助けているのだ」と叫びながら海外に行った人がどれだけいただろう。戦前の軍事力の背景による略奪から、今度は「金」の力でアジアを蹂躪するのと本質は同じである。自分の妹や娘がその立場に立たされたらはたして手を叩いて喜ぶだろうか。

湾岸戦争のおり日本は九〇億ドルものお金を出したがどの国からも感謝も尊敬もされなかった。金は欲望をかき立て、魂を腐らすけがわらしい、いかがわしい顔を半分持っている。戦後の日本は拝金主義が大手を振ってまかり通る下品な国に成り下がってしまった。ネパールに在住の素晴らし複数の日本人と、現地の人々との出会いはいままで味わったことのない感動の旅であった。

三週間のネパール山村の旅は「ネパール旅」として小冊子にまとめた。

36・ 高齢者福祉運動に参加


介護の社会化運動に参加する。二〇〇〇年から介護保険が導入実施される。ハンデキャップを持つ人々を社会全体で支えてゆこうという制度になるはずである。

一〇数度の準備会を経て九八年一〇月に「介護の社会化を進める群馬市民の会」を発足させた。
九九年二月から各市町村で学習会が始まっている。藤岡市でも三月一四日、藤岡公民館三階で開催の予定である。

私は椎間板ヘルニアの手術と、長期間入院から弱者の立場に置かれ辛い経験を持っている。高齢者やハンデキャップを持つ者の様々ないたみは一般の健常者には理解を得られないのが常である。介護や介助運動に参加した私の理由である。

あとがき


私が簡単な自分史を書いた理由ですが、二四年前は他の土地に居住していたために地元の人は「よそ者」として見がちです。

ある人間の過去を知らないのは、不安であるのは誰しも共通した感情であります。まして市会議員として立候補し、公人を目指すわけですから、自らを公開する義務があります。

充分とは言えませんが私の半生記の中から、三好徹明と言う人間をご理解いただければ幸いです。記  1999年 2月 1日  

私達の地域社会に正義が罷り通り人々が未来に希望の持てるまちの実現にむけ、皆さんと手を携えて改革実行したい・・・。
ご支援のほど宜しくお願い申し上げます。 
この文書を小冊子に印刷し、1000部を有権者に配布した。
一九九九・二・一 三好徹明

1999年4月 藤岡市議選 初当選 1153票で当選.


2期目の選挙 2003年4月
 報告

2期目は、一人で出陣式
2期目の選挙2003年4月 では少数の手弁当の有志に手伝いをお願いし、選挙運動は基本的には一人で軽自動車を運転し街頭演説だけで終了する。

選挙費用
収支報告

古い歴史のまち,政争のまちでの選挙
「もらわない、求めない、贈らない」わたしの2度目の選挙挑戦でした。

中曽、福田、小渕の3人の首相を生んだ日本一の超保守王国。私の住む化石のように時間の止まった政争のまち・・・

運動員も事務員も置かない。事務所には妻が一人・・・
(選挙期間中、国会議員が自分の選挙も近いと陣中見舞いに各陣営をおとずれる。
元大臣N参議院議員も秘書連れてやってきた・・・妻一人の事務所を覗いてあっけにとられ・・・激励の言葉もしばし口から出ない・・・)

後援会をつくらない。金を徹底してかけない。宣伝カーのウグイス嬢はカセットテープ。
一人で宣伝カーを運転し街頭演説2百数十回。時には畑の中、風向きをみては川の土手の上から演説・・・・。

同級生もいない、血族もいない。金も使わない、組織もつくらない。地域の支援も受けない。無所属。

名誉も地位もいらない、金もほしがらない・・徹底したシガラミをつくらない選挙を勝ち抜いてはじめて実現できる市民の真の代弁者たるべく信念の行動。

24名定員中20位で2期目の当選。

有権者の過半数が私の皮肉の行動を理解できるようになった遠い未来・・・なんと思うだろう・・・  


今回選挙費用(7日間)

支出

選挙事務所 0円(絵画展示場自己使用物)
スピーカー 
 0円 (自己所有物)
宣伝カー   0円 (自己所有の軽自動車)
ウグイス嬢  0円 (カセットテープ声は知人のお嬢さんがボランテアで吹き込んでくださった)
運転手    0円  (自分)
運動員    0円  (自分)
事務員    0円  (妻) 

(看板、自動車、他の看板は前回の使用)
小計 67、150円
 

通信費 (電話代など・・)
小計 31、576円
●ポスターはがき ・燃料・・・などは公費負担なので0円

収入

寄付   
 80、000円

 
(陣中見舞いなどこ事前におことわりしてあったが、仕事の関連などで含めて 数人から寄付がありました)7日間にかかった選挙費用は・・・

差し引き合計
18、726円 笑

以上が私の今回の選挙費用でした。県藤岡市 市議会議員 三好徹明

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